2011年4月17日日曜日

舞台『国民の映画』感想 その5

まさかこんだけ長くとは思いもよりませんでした(^_^;)

 4で終わるのは縁起悪かなぁ(ってヲイ)と思ったもので、総括とういうか書きながら思い出したことをざっくりと。

 この舞台、普遍的な内容なのに恐らく「古典」にはならないだろうと予感します。理由は、キャラクターが役者の個性や力量に添いすぎてる事。これは三谷作品の特徴だし、あて書きの妙だとは理解してます。あて書きで脚本家自らが演出することで生まれる、化学反応は「今」しか味わえない贅沢さであることも。
 ただ、この作品が「旬」として消費されてしまうことが心から勿体無いと思うのですよ。勿論DVDとかの映像は残るので、問題なのかもしません。けど、LIVEでこそ伝わる「何か」が失われてしまうのが勿体無いなぁと…。

 私が気になって仕方ない台詞とか言葉とかも、あの俳優陣が語るから引っかかってるんですよね。あのメンバーが生み出した空気で語られ見せられる「旬」の世界だからこそだと。
 そう分かっていながらも、勿体無いなぁと思ってしまう私が居ます。

 野田秀樹さんの舞台でも同じかもしれません。野田秀樹という脚本/演出家がいて初めて成立する「作品」だから。

 しかし、昔の作品も座付き作家があて書きしてるはずだし(シェークスピアとかも)、それがどうやったら「古典」になるのか。どれだけの時を経たら「旬」が「普遍」になるのか、とても気になりました。
 
 なんで、エンタメな舞台を観てこんなことをツラツラ考えなきゃいけないのかと思うのかと、自分自身でも驚いてます(笑)今回の観劇は、ホントに色々ややこしいことを宿題にしてくれたよなぁと、少し嬉しく思う私はM気質なんでしょうか?!(笑)

 まとまりのない感想(思考ダダ漏れか)に最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。
これにて、感想を終りにしたいと思います。