2011年4月16日土曜日

舞台『国民の映画』感想 その4

・平岳大@グズタフ
 う~ん。いい役者さんだとは思うのですよ。しかし、あの面子に囲まれると悲しいかな弱い気がしました。役どころとしても、ゲッペルスの女性関係を見せるためだけの感じだったし。正直、必要だったのかなぁとか思ったり。役としての見せどころも少なかったしなぁと。

 平岳大さんは、(私の)レット・バトラーを是非!とは思いました。余談ですが、初夏に公演される『風と共に去りぬ』で(私の)レット・バトラーを演じられる寺脇康文さんよりは、絶対イメージが合うと思うんですよ。寺脇康文@レット・バトラーを知った瞬間、私のレットのイメージを崩さないで(涙)となったくらいショックだったんですよ。寺脇さん嫌いじゃないんですが、私のレット・バトラーとは、絶対違うんですよ!!
 閑話休題。役どころが二枚目俳優だったので、違和感は無かった分余計に勿体なさが残った気がします。

・吉田羊@エルザ
 ゲッペルスの新しい愛人で新人女優。
 彼女は徹頭徹尾、物語の軸に関わってきません。ケストナーやマグダが傍観者でありつつも当事者であるのとは、全く異なり単なる「第三者」。なのに、客観性があるかといえばそれもなく、ただ彼女以外の人々が言葉や表情の表裏で行ってるやりとりを見過ごしてるだけの人。徹底的に疎外されているにもかかわらず、それすら意識していない人。
  軽やかで愛らしく無邪気で世間知らず、だからこそ自身の器以上の野心と野望を持つ女性でした。
  レニが自身の信じる大きめの器に己を合わせる力量がある女性とするならば、エルザは器の大きさを知らないままそれ以上の野望を抱き知らぬ間に倒れる女性という感じでした。それが若さ故のものなのか、身の丈に合わない役割や地位(ゲッペルスの愛人)を与えられたから生じた錯覚故なのか。そういった曖昧な面を吉田洋さんのお芝居から感じました。

 舞台上での彼女の役割は、ゲッペルスの人柄(女好き、見栄っ張り、卑屈、簡単にヒヨる等)を見せる事以外無かったように思います。それが、ゲッペルスに奥行きをもたしてた気もするし…。あと、感情の起伏が一番大きかったので、見ていて面白くはありました。

・小林勝也@グズタフ
 名優と言われている老俳優。
 風見鶏なのかなぁと思わせ、最後の最後で裏切って強い印象を残したキャラクターでした。

 「『改める』とは過ちを正す言葉。私は自分の行いを間違っているとは思っておりません」
 グズタフの台詞の中で、これが本当に印象深いんです。俳優だから拘る「言葉の定義」、言葉に生かされてる者の矜持、マイノリティとして誇り。間違った意味で言葉を「語る」ことで、本来なかった意味付けがされ変わっていく何かを知ってる重み。言葉を操ること、マイノリティとして生きることの難しさを感じた場面でした。
 
 今回はじめて思ったのは、三谷さんの言葉(台詞)へのコダワリ。これまでの作品でもそういう部分はあったと思うのですが、今回ほどそれを強く感じたことはありませんでした。、TVドラマであっても誰に何をどう言わせるのかとか、台詞で伏線を張り巡らせ言葉で回収されてたと思います。あと、『笑の大学』は徹頭徹尾言葉に拘った舞台だったかも。
 ただ、今回小林勝也さんという役者と、『ファウスト』の一場面を通じてそれを明確にしたような気がしたんです。勿論、小林勝也さん演じるグズタフを通すことで、役者や表現者が抱える矛盾(己の技量に対する矜持と権力者に阿らねば生きていけいない現実等)を見せていたんだと思うのです。が、私がより強く感じたのが「言葉」でした。

 グズタフとケスラーを通じてではありますが「表現者」の業の深さを見た気がします。凡人が足掻いても足掻いても到達出来ない高みにいても、時の権力者の前ではナニモノでもなく。己を屈することで己を活かす(生かす)。なんかものすごい宿題を与えれてる気がしてなりません…。

 あと、ナチスといえばユダヤ人収容所ですが、マイノリティの圧殺も同時に行ってるんだった、と思い出しました。優生思想でガンガン「駆除」してる事実が。某都知事の公約というかスローガンで「独居老人0、孤独死0、ボケ老人0」があったかと思うのですが、それってこれに通ずるよなぁと思うんですよ(例の「マンが規制条例」も同じ)。それを知らず知らずに選択しちゃってる私たち(と敢えて書きます)は、当時のドイツ国民と何が違うのなかぁと。彼我との差はあるのかないのか。「ある」としたらどこなのか、「ない」といえるのならばそれはなぜなのか、問い続ける必要がある気がしてなりません。

・風間杜夫@ヤニングス
 風見鶏な映画監督兼俳優。
 風間杜夫さんの縦横無尽さに感嘆でした。長年、演じられてるかたのゆとりも感じたりです。
 ある意味コミカルな役回りであるんですが、太鼓持ちをしなきゃいけない鬱屈、映画にたいする愛情、過剰なまでの自信、尊大さなんかが居るだで伝わってくのが凄かったです!喋らなくても、その場に居るだけで「場にいる意味」が分かるのってホントに本当に凄いと思うのです。

 この人はケスラーと違い、自分と映画を愛するからこそ「拒否」します。「表現」に対する情熱は同じで、抱える自己矛盾も同じ。違うのはただ一つ「あれ」でないことだけ。自分はそうでないから、決して「駆除」されない裏打ちがある。「表現する場」を失うかもしれないけれど、駆除はされない。駆除されなければ時代が変わるまで生き残り、変わった時代で表現する可能性が絶対ある。そう確信できるからそこの行動なんですよね…。こう書いてて、三谷ってもしかして凄いか?と思ったりです(笑)。
 
 少なかった(笑)カーテンコールで唯一手を振ってくださったのが風間杜夫さんでした。あの姿は、ぶっちゃけ可愛かった(笑)。
 そして、一番気になったのは序盤でマティーニのオリブーをツマミ食いされてたこと(笑)。何か伏線なのか?!と思って観てたんですが、まったく何の意味もありませんでした(^_^;)。最前列はこうことまで見えちゃうから、嬉しいんですよね~。