2012年6月24日日曜日

『フランケンシュタイン』 (光文社古典新訳文庫)雑感

某所にて6/24公開、7/18転記

 ベネディクトが昨夏に舞台で演じ、オリヴィエ賞の主演男優賞を授賞した作品の原作。今更ながら読んでみることにしました。

 勿論、舞台の『Frankenstein』は随分脚色されてますし、演出や解釈等で原作とは随分色合いが変わのは百も承知。しかし、日本では劇場公開もされないっぽい(英米では この舞台を劇場で放映するんですね…羨ましい限りです)ので、原作から想像するしかないかなぁが、読むに至った理由です。

  フランケンシュタインと言えば、藤子不二雄氏の『怪物くん』やモノクロ映画 のイメージしか思い浮かばない私。なので、原作のフランケン シュタイン博士 (以下ヴィクター)と怪物の人物造形、彼らの繊細さと愛憎が入り混じった関係には驚かされました。


 特に、ヴィクターのヒトデナシっぷりには唖然でした。

 ヴィクターは、確かに天才だし繊細である意味果てしなく善人なのだと思います。 が、非常に弱くて脆い上に自己評価がむやみに高い。創造主であるからこその傲慢さなのか、単に「美=善」とする価値観が全てな世界だからなのかは浅学な私には解りません。しかし、怪物が「生」を得た瞬間にその「醜悪さ」に嫌悪を覚え全否定して逃げ出すって…と。確かに、神の創造物である人が神の領域である 「生命」を生み出したことに対する恐怖、それを行った自身への嫌悪はわかる。それが分かった上で、逃げ出すのはどうよと。逃げ出すくらいなら、その瞬間そ の場で怪物を「殺す」選択があってもよかったのじゃないかと、それが創造主の責任じゃないのか?と現代の私は思ったりします。この辺、倫理観や道義的な問題も絡んでくるので簡単に答えは出ないんですが。
 

 また「醜悪=悪」な価値観で怪物を捨てたのだとしたら、それもそれで勝手だよなぁと思うんですよね。その姿形を作り上げたのは、ヴィクターその人じゃないのかという疑問が離れなかった(^^;;。その醜悪さはヴィクターが望んだ姿だったんじゃないのだろうか?もしかすると、その醜悪さこそヴィク ターの本質なのかもしれない。だからこそ、怪物を否定せざるを得なかったのじゃないかとか。
 また、仮に怪物が「美」しかったのなら、それはそれで ヴィクターは打ち拉がれた気がしなくもないんです。創造主より「美しい=善」な存在が目の前に現れたら、恐らく挫折感や劣等感が半端ない気がする。だったらやっぱりヴィクターは怪物から違った意味で逃げ出したのかもしれません。
 ただ、ヴィクターのそういう気質なり描写が、読んでる間じゅうものすごく魅力的に感じられたのも事実です。掘り下げたら無茶苦茶面白くい人物なんじゃないだろうかと、素人ですら思うほど魅力的でした。

 そんなヴィクターに対し「愛情」と「優しさ」を求め続ける怪物。怪物がヴィクターに対し請い願う場面は、美しく悲しく愛しかった。幼子が抱きしめてもらおうと親を見上げ手を伸ばしてるかのような必死さと純粋さ。単に創造主たるヴィクターから「慈しみ」をもらいただけなのに、それすら与えられな い。ましてや、憎悪しか向けれられない。拒否される痛さと哀しみが、これでもかと言うくらい伝わりました。

 そして、怪物が出会ったフランス貴族の家族の描写。ここもホントに美しかったんです。怪物が初めて感じた光。それは怪物の錯覚だったのかもしれ ませんが、怪物が見た「光」は真実だったのだと思うのです。しかし、その光を知ったがゆえに己が「陰」であることを理解したという哀しさ。言葉を覚え、感 情を知り、愛を見つめ続け「成長」したにも関わらず、醜いというだけで拒絶される事実は、彼にとってどれほど苦しかったか。しかも創造主はそれを聞いても 感情が動かされることがない。なんて悲劇なのかと。

 その二人が表に裏になりつつ描かれる「フランケンシュタイン」という物語は、神と人、人が生命を作り出す是非、現代科学、物語、愛憎というあらゆる側面から解釈できそうな大きさがある気がします。

 原作を読んで更に舞台が見たくなりましたよ…。なにこの悪循環…な気分でいっぱいです(苦笑)

 で、ベネディクトがヴィクターと怪物の両役やりたい!と言ったのがよく分かりました。読んでる間中二役ともベネディクトで想像して違和感なかった(笑)。

 真面目な話、ヴィクターと怪物は二役で一つで、片方だけ演じても「フランケンシュタイン」は表現できないわ…とまじめに思ったくらいです。
 NHKさんが買って放映してくれないだろうか…。DVD化されてたら輸入盤でも買うのになぁ…。と欲望が高まるばかり。