2004年12月28日火曜日

ノーベル文学賞受賞作品でしたか...

 旅行中、持参していった「喪服の似合うエレクトラ」を読んでました。「ノーベル賞文学全集20」の中の1篇という、ある意味仰々しいご本。Webで調べた岩波文庫版が何処にもなく、図書館で検索したらこれしか無かったんです。
 この本、表紙画がピカソ、編者が川端康成という、何ともまぁ...凄い本でした。借りた瞬間「どうしよう...」と妙にオロオロした程です。堺さんが関っておられなかったら、絶対手にすることはなかった本だと思います(笑)。ただ、何かしらの縁があってこの「本」と出会い、また静かでゆっくりとした空間で読む事ができたのは、幸せだったと思います。
 
 読書感想ですが、アメリカにとって南北戦争は、大きな「瑕」であり「古き良き時代」なのかもな、というのが第一印象です。
 私が不朽の名作と信じて疑わない「風と共に去りぬ」もそうですが、南北戦争を下敷きにした文学には「家の責任」「罪」「死」そして「再生」といったものが強く感じられてなりません。それだけアメリカにとって、古く新しい瑕であり(国土内で且つ国内で戦争した最後じゃないかと思うんですが...。これ以降国際的な戦争はしてるけど、アメリカ国内では戦闘は無かった筈)尚且つ「家族」が家族として機能していた時代でもある。
 だからこそ、家族の繋がりを通して「責任」を語り、罪を語ることができる。その根底があるからこそ、家族が(内部及び外部からの)要因で崩壊させることで、視点を「個」を写し個々の「罪」や「責任」語り得るんだと思うんです。
 また、更に「個が持つ罪や責任」を一度壊す(揺るがす)ことによって、個々の死と再生がある。その事は個の中に確かに存在してるであろう「家」そのもののを再認識させ、死か再生かを選択させる。
が、それらは元来の「家」とは性質が異なった「家」や「個」でしかない。

 それらに「復讐」という味付けを施す事により、更に深く太古からある人の「業」を描いてる重層的な物語なんじゃないかと、そんな気がしてます。

 また、彼等が常に言葉にする「罪」とは家族の「裏切り」という他に、「絶対的な神」の前に人が持つ根源的な「罪」をも意味してるんだろうな...とおぼろげながら感じました(哀しいかな一神教と多神教文化の違いで、やはりすっきり判りませんが...)。

 今、図書館で「喪服〜」の元になっている「ギリシャ悲劇」を予約してるんですが、そっちを読んだ後にはもう少し違った思いを抱けるんじゃないかと思ってます。

 でも、やっぱり堺さんのオリンと大竹さんのラヴィニアは観たかった。感情が上下し気持ちが揺れ動き、変化しつづけるこの二人。どう彼等が演じてどう表現してるのか、どんなテンポで音で「言葉」を伝えてるのか、そして実際に生きて動いてる彼等を体感してどう「感想」が生まれるのか、非常に興味が尽きません(戯曲はやはり「人が舞台で演じてこそのもの」だと思うようになりました)。
本当に観たかった。恐らく今年最大の思い残しかもしれない(笑)