2004年12月21日火曜日

寄り道な思いをつらつらと。

 撮影開始から絶え間なくあったバッシング。特に「史実」(若しくは「過去のとの創作物」)との兼ね合いについて、あちらこちらの掲示板に書かれ続けた様な感すらあります。

 昨年のこの時期、まだ始まってもいないドラマへのバッシングが余りに理不尽に感じ、歴史関係の仕事に携わってるしてる相方(史学科出身)に連日「史実とは何ぞや?!」、「歴史と歴史を扱う『創作物』との関係とは如何にあるべきなのか?!」と食って掛かっていた時期でもありました。(相方には当初から迷惑掛けてるな、私)

 1年経った今でも「史実」と「虚構」の兼ね合いとか、虚と実の関係について私なりの答えは出ないままです。ただ、これは当初から思ってることなんですが、所詮歴史ある大河と謂えども「ドラマ」でしかない。そして、描ける範囲(時間や時間軸)が限られてるんだったら、今ある「実」を巧くつかって「虚」を描けば良い。
 その虚構の世界で描かれる「人物や出来事」生きてると思えるのであれば、その世界は成功なんじゃ無いのか。巧く「人」が描ければ、巧く「世界」が構築(勿論最低限の「事実」や「歴史の時間軸」の中で)されれば良いんじゃ無いのか、と。
 今回の大河はそういった意味で、良く出来た「ドラマ」だったと思うのです。

 大上段から「史実とはこう」「歴史とはこう」と言わずに、細かな「実」を「虚」に織り交ぜることで「歴史」の曖昧さ、人が作るからこそ見える歴史の「面白さ」(学問としても、事象としても)なんかを久し振りに味わわせてくれたドラマだったと思います。また、ナレーションが無いが故に「人物」の本音と建前を慮ることが出来、より作られた世界に入り込めたドラマだったとも思うんです。
 だからこそ、此処まで楽しく、満足しながら深みに嵌ることができた。

 ただ矛盾してた思いもあることはあります。
 それは、「歴史ドラマ・時代劇」というには、今一つ違和感、乃至、消化不良な感が残った事は否めない事。こうダイナミックさが足りなかったからなのか、時代のうねりが見えなかった所為なのか、視点が余りにも「ミクロ」的過ぎたのか、拮抗する勢力内部が描かれなかった所為なのか、編集の所為なのか解りませんが。結果として、恐らく時代劇としての「評価」は為されないドラマだろうとは感じました。

 相方がこの1年言い続けた「これならなんで『時代劇』にする必要がある。歴史的背景や設定だけ巧く借りて、変化させた『現代劇』にした方がより切迫感も出ただろうし、物語としてもより面白くなったんじゃ無いのか。三谷の才能ならそれくらいできるだろうに」という言葉が離れませんでした。
 また、その言葉に対して「時代劇」である意義なり根拠を示して、理論立てた抗弁が出来なかったことが、ある意味このドラマの私なりの評価かもしれません。
(ちょっと穿ってみたら、三谷氏が描きたかった何かが、現代劇ではなく「時代劇」という枠を借りてしか表現し得なかったのかも、とふと思ってみたりもします)

 ただこうやって、あれやこれや思いを馳せられるドラマであることは間違いないし、こういった事ができるドラマに出会えたことが嬉しく、幸せなことなんだと実感した週明けでした。