2004年12月15日水曜日

なんとなく呟いてみたい。

 最終話から3日経ちました。悲嘆に暮れてどうしようもなくなるかと思ってたのに、落ち込んでも凹んでも浮ついてもない、普通の状態なのに驚いてます。
 でもこの状態なのは、「新選組!」が綺麗な終わりであったからこそだと。
 ある意味、物凄く幸せな最後を見せてもらえ、充分満ち足りてるからなんだと、そう思ってます。

 「近藤勇の斬首」という史実なり結果は決して「幸せ」ではないし、彼にとっては哀しく無念だったろうし、残された者にとっては辛い結果だったと思います。それは間違いではない。ただ、大河で三谷幸喜が描いた「香取近藤の斬首」は、静かで美しく穢れがなかった。
 誤解を招く言い方かも知れませんが、天命によって定められた生を悔いなく生きた後に訪れる「満ち足りた死」のような趣すら感じられます。

 近藤の斬首直前の表情に、「未来」と「希望」「安らぎ」を見た気すらしました。それほど満ち足りた「死」だったと思うのです。

 更に、残された者誰一人として「近藤の死」を悔いていない。それは「諦め」では決してなく、彼等の未来の糧になってると思うんです。近藤の生き様そのものを「受け止めて昇華」し、己の中で再生産してる。
だからといって、近藤の死を彼等は決して忘れることは無い。
 そんな確信すら抱かせられました。

 そう思える最後だったから、土方が転戦する意義や意思や思いが、島田が生涯「新選組」を忘れなかった事が、永倉が近藤らの慰霊碑を建てたのが朧気にでも解るような気がするんです(遥か遠くに霞んでる蜃気楼を見てるような、そんな遠い遠い感覚です)。

 最初から最後まで、「史実を捻じ曲げてる」とか「史実と違う」とか、果てには「実際の人物はもっとこうだった」とまで言われ続けた、物凄く珍しい(苦笑)大河であったと思います。多少の虚構があったり、史実と異なる部分はあったにせよ、彼等は決して「史実」を蔑ろにも無碍にもしてはいない。逆に史実やこれまで創られた物語に対して、このドラマの作り手は謙虚であったり、敬意を払ってるとすら思います(愛情すら感じる)。
 キャストの発言からでもそう感じます。実際に生きてた人の「生」と「死」を演じることの「深さ」や「重さ」を理解し、彼等の「生と死」に対して敬意を払ってる。だからこそ、役と同化し得「抜けない」という言葉が出てくるんだと。じゃなきゃ、たった1年のドラマで、実際の土方や島田や永倉が残したエピソード等に対して思いを馳せる事はできないです。それも「畏敬の念」を抱きながらなんて事できません。

 そんな最終話だったから、あのカーテンコールで幕を下ろせたんだと。大河枠でなきゃ作られなかったであろう「新選組」という物語を、TVという「劇場」を使った「舞台」を、心行くまで堪能出来た事が本当に満足だと思えることが嬉しいです。
(そうか・・・TV「ドラマ」じゃなくTVを使った「舞台」だったんだよね。やっぱり・・・)