2012年3月18日日曜日

映画『J・エドガー』感想

某所にて2/19公開

雪が降る中街中まで出て、観てきました『J・エドガー』(日本版公式サイト)。
 FBI初代長官フーバー長官を軸に、彼が手にした権力をどう使い「アメリカ」を裏から支えたのか。20年~70年までのアメリカを裏から見る映画。または、「正義」に妄信的に仕えたがた故に、正義から見放された男の人生。
 と言うのがどうやら日本での主題としたかったようですが、実際は成分の90%がブロマンス(Bromance)でした。若干事前情報を入れてた私ですら吃驚するくらいのブロマンス映画だったよ!!!

 確かに、映画雜誌とかでは主演二人のKissが取りざたされてましたし、実話として「あの2人は夫婦だったんだ」とかあったんだ、とかも書かれてました。しかし、ましさあそこまで延々エドガーとトルソンの愛が描かれるとは思わなかったです。行間が読めてなかったのかもしれませんが、ちょっと驚いたよ!
 裏政治史な部分は、フーバー長官の死後3-40年経つ今となっては割合もう知られてることばかりで、目新しい要素は殆どありませんでした。そういった意味では、ちょっと肩透かしかなぁと思わなくも無いです。

 政治史よりもJ・エドガー・フーバー個人に焦点が当てられてなす。なので、一人の人間が国と自身を同一化させ、それを壊す事象から守ろうとするがゆえに狂信的・妄信的になる姿には見応えがありました。
 特に、彼を批判するモノ=アメリカの脅威と転換され排除されるのには、背筋が寒くなるものがありました。人間の自己肥大って際限がないんだ…とか一旦全てを制御する力を得たらそれを守るために「正義」すら歪めるって…とか何とも暗澹たる気持になります。
 また、母親の支配が強固で、母親の言葉に「支配」され続けてる様子が、『ブラック・スワン』を思い起こさせてちょっと辛かったんです(苦笑)。しかも、幼い頃吃音障害があったとか…。一体何のトラウマ映画?!ってなくらい、軽く凹みましたです。

 そして見ながら解らなくなったのは、果たして「アメリカ」は「彼」に守られたかったんだろうか?「彼の正義(若しくは敵)」と「アメリカの正義(若しくは敵)」は=だったことがあるんだろうか?「絶対的な正義」とは一体何なのだろう?ってこと。恐らく、映画を見ただけは答えが出ないので、図書館で評伝かなにかを漁ってみる予定。じゃなきゃ、あまりにも整理がつかない気がします。

 以下箇条書きの雑感
・当時(今もか)のアメリカじゃ、同性愛者も排除される「人種」だと考えると、エドガーが必死に「異性愛者」であると思い込もうとしたのが分かります。しかも、母親から「彼らは異常であり、貴方は彼らとは違う」と言われ続けていれば、尚更そうなるのは必然だったのでしょう。
・また、今と若干異なる社会背景にあって、万一自覚していたとしてもその関係は最優先で隠されるべきものであったであろうことは、想像がつきます。そして、排除される側の人間がそれを隠すことによるストレスで、他者を排除する際に箍が外れるのはよくあることで(例:第三帝国とか)。
・エドガーの場合、それに加えて「国家の敵」=「自身の敵」と置き換えてしまう自己肥大があった。そうなると、必然に自身を傷つけるもの=国家の脅威になるわなぁと。しかも、無意識に母親の評価(黒人差別や女性蔑視なんかが)が好悪に影響を与えてるわけで…。それが、一国家に影響を与えたと思うとかなりゾッとします。
・若い頃のエドガーは、青くて微笑ましく思える面があります。が、自己撞着してからは怖さというか、自信のない子供が必死に背伸びしてるかの哀れがありました。
・大衆を扇動するためのメディアの使い方は、今も昔も変わらず。理性より感情に訴えかけた方が、大衆は動かされるのはギリシャ時代から変わらないってのが、歴史の面白さでもあります。
・彼の母親が何を思って彼をあそこまで「支配」していたかはわかりませんが、彼女にとって息子が権力を得ること=彼女が権力を得ること、見果てぬ夢を現実に手にすることだったのかもしれないと思ったり。母子同一の究極の形といおうか…。
・エドガーと副官のクライド・トルソンの関係は、母親はどう見てたんだろう。なんとなく、その辺が気になりました。
・エドガーの私設秘書ヘレン・ギャンディはもしかすると一番エドガーと親和性が高かく、感情に左右されなかった分一番信頼されてたのかもしれないと思います。トルソンがエドガーの良心とするならば、ギャンディこそが真の右腕というのか。
・話題沸騰(なのか?!)キスシーンよりも、初対面のバーの場面や手を重ねる場面、恋文(女性記者からルーズベルト夫人宛)を朗読する場面、老いてからトルソンへ「君が必要だった」と伝える場面の方がゾッとするくらい艶っぽかった。それらを見て、あれは恋情なのかもしれないけれど、きっときっと魂の半身が求め合った運命の相手なんだ!とか思った私は腐ってますか、そうですか。
・特に、(他人の)恋文を読み上げる場面ときたら!瞬間二人の空気が濃密になったように感じて、まるで濡れ場のようにすら思えました…。事後の睦言というのかなんなのか…。ディカプリオの声がこれまた深みを帯びてて、凄く色っぽかったんですよね。それを聞くトルソンの表情も熱を帯びててさ…。
・エンディングでエドガーの死後、トルソンが遺産を相続して隣で眠ってると流れたのを読むと、やっぱり意図はブロマンスなんだろうなぁ。ゲイ映画と言い切れないのは、エドガー側が性癖を頑なに否定してたからなのと、直接的な表現が全くなかったから。確かに、キスシーンはあったけれどあれは、もう完全にトルソンが切れた状態で不意打ちだったし、思いを伝えようとかそういう意図がなかったから違うと思うんですよね。
・キスシーン前後のトルソンが切な過ぎて…。どれだけ彼は思いつめてたんだろうかと。そして、ささやかな期待が一瞬にして裏切られた時の哀しさと、伝わっていなかったと知った時の虚しさはどれほど大きかったのかと…。この場面のアーミー・ハマーは凄くイイです!

・ディカプリオはいい役者さんになったなぁ。若い時から達者ではあったけど、ここまで演技で魅せてくれる俳優さんになるとは、予想外だった。太ろうが老けようがいい役者はどんな時でも素敵だと、思わせてくれるようになったのはホント嬉しい限り。ただ、『タイタニック』のディカプリオが好きな人には、ちょっと最近の作品は今ひとつなのかもしれないとは思います。余談ですが、個人的に彼のビジュアルで最高だと思うのはバス・ラーマン監督の『ロミオ+ジュリエット』の時です。異論は認めません(笑)
・若い時のエドガーと回顧録を口述筆記してる時の老人エドガーで、声と動きを微妙に変えてるのは、見応えがあります。加齢による変化が計算で出来る役者さんになったんだねぇぇと妙に嬉しくなりました。
・搾り出すように「愛してる」の台詞。やっと認めて口にしたのに、相手には届かないって、どんなブロマンス!?
・エドガーの母親を演じたジュディ・デンチ。鑑賞動機の半分はこの方です(笑)。もうね、ホント大好きだ!!ジュディ・デンチ!!!!動きの一つ一つが美しくて、表情の一つ一つに意味があって、台詞に幾通りにも意味を含ませて、彼女を見てるだけで満足でした、私。特に、エドガーにダンスを教える場面!!もう、足さばきとか指とか身体が美しいの一言。しかも、エドガーを支配し続けた「言葉」や「視線」の表現がゾクゾクするくらい怖くて綺麗で愛情溢れてるって、なにこれ?!な状態です。この方の、RSCの舞台DVDが真剣欲しいんですよ…けどタイトル別販売してなくてねぇぇ(涙)。余談ですが、RSC舞台の日本版DVDは売ってます。イアン・マッケランやパトリック・スチュワート、マギー・スミスなんかの若いころの舞台なんかも収録したものです。が、全巻セットでしか売ってないんです…。イアン・マッケランとジュディ・デンチの『マクベス夫人』が物凄くとても観たいのに…全巻セットって…と涙を飲んだ次第です。
・私設秘書ヘレン・ギャンディ役が美しいわ、巧いわで「誰?これ」と思ってエンディング見たら、ナオミ・ワッツでした。硬質な雰囲気が見てて綺麗で、加齢したときのお芝居も違和感も無くて、素敵な役者さんだと改めて感じ入りました。
・クライド・トルソン役のアーミー・ハマーは、若い時はいいんだけど加齢時はちょっと無理があったかなぁと思わなくもないです。が、育ちの良さとか愛おしさを湛えた視線とかの表現が見事で、引き込まれることも度々。
・役者のアンサンブルは見事で、見飽きることがなかったのは収穫でした。

<追記>
 その後図書館で『大統領たちが恐れた男―FBI長官フーヴァーの秘密の生涯』(アンソニー・サマーズ著、新潮社刊)
を借りて読みました。映画が賞レースから外れたのは納得。映画で描かれる事以上の内容が深く考察なり分析されるし、人物評のみならず現代史としても興味深い書籍でした。そこから映画を振り返ると、やはり表面的だと感じましたし、映画だからこそ描ける何かとか、映画自体の解釈が加味されていたかと言えば、そうじゃなかった気がします。
 ブロマンスとしても、然程センセーショナルでも無かったことを鑑みれば、やっぱり賞レースから外れたのはホントに妥当。

 ディカプリオがゲイ役するのって、今作が初めてじゃなかったことに暫くして気づきました。『太陽と月に背いて』があったよ!!!日本じゃ単館上映だったけど、ランボーとヴェルレーヌの関係を生々しく描いた映画があったじゃないか!見に行っじゃないか、私(苦笑)。なので、映画人にとっては全く何一つ新鮮味が無かったんだろうと、改めて納得した次第です。