2004年8月30日月曜日

04年大河に関して思うこと。

 このドラマ、ナレーターが一切入らないので、見る側が感覚を全開にしなくては取り残されることが多いです(フル回転させても理解できてない私は、この際放置しておいてください/苦笑)。
 一話見るだけで精根尽き果て、挙句次の週まであれやこれや自問自答しながら悶々と過ごさなきゃならい事がしばしばだったりします(特に鴨・新見が死んだ回とか29話以降とか)。時代劇(しかも「大河」)で悶々とさせてどうします???。これは、「次回をワクワクして待ちわびる」大河じゃないですよ、三谷さん。
 お茶の間に優しく無い大河だよ...三谷さん。

 と、この際(どの際何でしょう?)理不尽な怒りをぶつけてみました(すっきりした〜)。

 その辺りに今までの『大河ドラマ』が「お茶の間」に浸透してきた理由と、今回の三谷脚本が受けない理由が薄っすらと理解できた気がしてます。何が一番の差違かというと、1日1話形式や劇中にナレーションが入らない事。これだと、否が応でも「流れ」自分で補う必要が出てくる。もし補わないまま見てると、益々「間」が見えず置いてけぼりになる可能性が出てくる。連続ドラマにしたら物凄いリスクだと思いますよ。

 しかも、劇中で心象が具体的な「言葉」として語られることが、ほとんど無い。確かに、時折漏らす事はあるけれど、決定的な言葉としては語られない。
 特に、30話以降ときたら最小限の「台詞」と役者の表情だけで、時間の流れとそれに伴う感情の変化を推量しなくてはならないという、お茶の間ドラマとしては無茶な要求を視聴者にしてる気すらします。そして、その正解は示される事なく、何もかもひっくるめて「流れ」に飲み込まれる様な気がしてなりません。

 転じて今までの『大河』は、お子様からご老人までを対象にしてるんで、非常に解り易い&取っ付き易い形式だったと思うんです。予め答えは用意されてて、それを俯瞰することで歴史なり人生を追体験するという、心地よい解り易さがあった様に思います。
 シナリオ集まで読んだくらい嵌った「独眼竜」例えに出しますが。
 お東の方と政宗の和解とか、小十郎殺害の政宗の慟哭とか、政宗毒殺時のお東の方とか...絶対に「この場面の彼等はこういう事を思ってるんだよ・考えてるんだよ」って「答え」が用意されてたんです(ナレーション含め)。それも話を跨ることなく。それに、「悪」が明確だったし(最上義明とか石田三成とかある時期までの秀吉とか)「理想」「目的」も明確に描かれてた。

 ところが、三谷さんはそれをしてくれない。どうかすると首根っこ捕まれて歴史の真っ只中に押し込まれる感覚すらある。当事者達と近い目線で見る事を強いられる、そんな思いすらします(34話のコメディタッチですら、それを感じます)。
 しかも、絶対悪や「壁」が存在しない。新見や鴨、長州勢ですら「一人の人間」として描かれてるから、常に「何故」「何がずれてこうなったのか」と疑問を抱えて見なきゃいけない様な気になる。その上、理想ときたら当時の時代同様揺れ捲くってるし、非常に据わりが悪く感じる。

 そんなこんなで、歴史(ドラマ)を俯瞰で見ることに慣れた多くの人に、今回の『新選組!』は嫌われるのだろうなと思ったりします。答えが明示されて無いし、見えないんだもの。たかがドラマでシンドイよね(苦笑)
 しかも、随時に「笑い」があるから「歴史ある大河」や「偉大な歴史上の人物」を馬鹿にされてる気がする感覚もあるんだろうな...と思えるようになりました。
 (ただ、三谷批判で間違ってるなと思うのは、三谷「ギャク」と捉えてること。決して、無茶な言葉で無理やり笑いを取る作品を造る脚本家じゃ無いのに。三谷さんは人が当り前に持つ「可笑しさ」を見せる場を作る脚本家なのにな、と思うわけです。「コメディ」と安い「お笑い」を混同しちゃ駄目だと思いますよ、本当に)

 〔上記、誤解されそうな表現だと思ったので追記です。私も「お笑い」は大好きです。地元柄、幼い頃からベタな吉本新喜劇に親しんできたし、好きな分野でもありす。お笑い芸人さんの方が色んな意味で達者な方多いとも思ってます。ただ、最近のTV芸的なインスタントな感じのお笑いと、それらは一緒にしちゃいけないと思ったりもしてます。で敢えて「安い」を付けさせて表現しました。分かり難い表現で気分害された方、本当にごめんなさい〕

 そして、三谷さんの描く人物の小さや弱さ・狡さ・情けなさが愛しく可笑しいと思えるのは、その視線が優しいからだと強く信じて疑いません。しかも、ちゃんと活きてるし。だから、なんと言われようと三谷作品が大好きなんだよな、私。

しかも、優しいけれど、どっぷり浸る甘さはなくて、むちゃむちゃ醒めて突き放す眼があって。そのバランスや揺らぎが絶妙に心地良い温度感だったりするんだ、私にとっては