2004年11月9日火曜日

映画【笑の大学】

 観終わった後、もう一度西村雅彦&近藤芳正の"舞台"で見たいと痛切に思った作品でした。
そして、「三谷脚本、大好きっ」と再確認させられた作品でもありました。

以下雑感

 実は幸いにも"舞台版(初演)"を観てるんです。また、自力でチケット取って行った最初の舞台でもありました。今以て、西村&近藤両氏の台詞回しや表情、居住まい、そして劇場を支配していた緊張感、笑いを覚えてるほどの初体験をさせてもらった舞台です(後にも先にもこれほど衝撃を受けた舞台は無いと思います)。

 舞台の印象が余りにも強く、今回の映画化には不安を感じていました。が、杞憂に終りました。
 舞台版では、ほぼ50:50だった向坂と椿の視点を、向坂に重心を移したにも関らず全く違和感がなく、しかも舞台と違う「笑の大学」という作品になっていたと感じます。そういった脚本監督の手腕には、感嘆するばかりです。

 まず役者さんについて。
 向坂役である役所さんが兎に角素晴らしかったです。何が、何処がって表現するのは無理だと思うし、必要ない役者さんであり「向坂」でした。

 一番の不安材料であった椿役の稲垣さん。
 滑舌の悪さは気になりましたし、役所さんと比較するとどうしても技巧や所作なんかは見劣りするんです。ぎこちなさが目立つというか。が、それ故に「映画版 椿一」が存在していたと感じます。決して対等な存在では在りえないのに、同等に近いモノとなってる不思議。そして時折見せる「集中力」だったり、醒めている雰囲気自体が映画版椿として存在し得た理由かと思います。
あと、順撮で良かった…と思わせられました(笑)

 そして脚本
 無駄の無い台詞の数々とか、一つの台詞を状況を変えトーンを変える事によって意味合いを変えたりする辺りは、流石だなと(コメディ部分で使った台詞を最後の場面で持ってきたり等々)。
 ある意味、三谷作品の要素の全てが詰まってると感じたりしました。

 そして、何より「本を書く」そのことに三谷幸喜がどれほど「尽くしてるのか」。その一端を見せられた気がします。どの作品も「創る」事に拘ってるなと思うんですが、「脚本を書く」事そのものを此処まで抽出した作品は無いんじゃないのかと思います。そして、彼なりの闘いを「楽しんでいる」とも思わされる場面の数々。三谷幸喜にとっての「喜劇」とは何なのか、それに対する答えの様な気がしてなりません。

 また、この作品、時代背景が昭和15年であったり当時の検閲制度を狂言回しに使ってたりするので、「すわ社会問題を扱った作品か」と思うんですが。鑑賞中も後もそういった「設定」を意識しないし、忘れてる作品なんですよね。単に「可笑しい」とか「哀しい」とかそういった個人的感情に訴える作品であって、肩肘張って脚本の意図を深読みし「現代」を語るようなそんな作品ではないと思います。
 時代背景やその他の設定は、単にドラマに深みを持たしたり、更に可笑しく(合理的に)なるために必要な借景という意味しか無いような気がします。
(大河も同様の構造か。三谷幸喜が描きたい「ドラマ」に必要な借景が幕末であり、新選組だったと。だから、台詞の一つを取り上げて「現代日本に〜」云々というのは正直違うんじゃなかろうかと思います。確かに台詞は計算されてるし練られてるけれども、それはあくまでも「ドラマ」として必要かどうか。人物に相応しいかどうか等々だけの意図しか無いと愚考してます)

 で、舞台版を思い出しました。
 西村さんの向坂はある種の「冷たさ」や「鋭さ」があり(言うなれば氷の壁)、それが近藤さんの椿の「暖かさ」や「柔らかさ」と向き合うことでどんどん溶けていく、また、対する椿は向坂との遣り取りで「硬さ」なり「熱さ」「鋭さ」を見せて行く、そんな対比が素晴らしかったと記憶してます。
 が、役所さんの向坂には「冷たさ」はあまり感じなかったものの、「硬さ」や「鋭さ」何より向坂が根底に持っているであろう「素朴さ」や抱えてるモノの「複雑さ」なんかを感じました(映像の力だと思います)。それが、椿と向き合うことで表面に現れてくる。そして、椿は全く変わらずなんですよね(苦笑)
それが舞台と映画の大きな違い(三谷さんがパンフレット等でコメントされてる意図は正確に観客に伝わってる筈)。

 どちらが好みかと聞かれたら、やはり「舞台版」の方と答えます(^^;;あの臨場感とか緊張感とかは、舞台向だと思うので。(パルコさんDVD化してくれんかな)

 ただ難を言えば、最終部分が若干冗長と感じました。舞台版のように「本直し」で終幕なのも映画としてはどうかとは思いますが、向坂と椿の頷きあいは私の好みでは無かったです(ここいらは単に好みの問題だけだと思います)。