2004年11月4日木曜日

ここまできて、と今更ながら

 このところ三谷幸喜作『新選組!』の緻密な作りに驚かされて、今まで以上に踊らされてます(苦笑)。そして、この作品での「近藤勇」は「香取慎吾」じゃなきゃ駄目だったんだと、更にこの作品は「香取近藤」の物語だったんだと、強く強く思い知らされてます。
 まったく、何処まであざといんですかっ三谷さん!て胸倉掴んでがくがく揺す振りたい心境です(心から誉めてます。本当ですよ〜!!)。

(以下かなり右往左往した文章です/汗)

 まず香取近藤について。
 43話を見終わった相方が言う訳です「久し振りに(恐らく池田屋以来かと/苦笑)見たけど、相変わらず香取は『下手』やな」と。「周囲が巧い分『下手』が目立って仕方ない」とまで言う訳です。
 そこで思ったのは、三谷幸喜は香取慎吾という役者に対して「技巧」を求めてないんじゃないかと。ある種の「下手さ」言い換えれば「不器用さ」そのものを求めたんじゃないのかと。

 香取の不器用な近藤勇を中心に置くことで、周囲の面々の個性が際立ち、三谷が考えている群像劇部分の「新選組」が成立するんじゃないのかと感じたんです。
 であるならば、強烈に個性を放つ人が主役(=近藤勇)では「物語」が存在しえないんではないかと。逆に全く「個性」が無い人を据えた場合でも、中心が見えなくなり「物語」が瓦解する可能性もある。
 となると、「個性なり存在感」があり、かといって自己主張するほど強い個性の演技者でないこと。更に、周囲の色を柔軟に受け止めて反射できる人間って事になるんですよね。
 そしてそういった中でも、三谷脚本の意図するところを「正確」に把握し演じることができる(三谷脚本と波長が合うといった方が近いかも)、となるとやはり香取慎吾じゃなきゃ駄目だったんだと。
 このことは、当初より三谷が散々コメントしてることなんですが、今になって漸くコメントの意味が薄っすらと解った様な気がします(ホント、今更なんですがね/汗)。

 そして、このドラマはやはり近藤勇の物語でしかない。
 この作品、人物を対比して描いてることが多々あるとは思うんです。が、近藤だけは「対」になる人物が居らず、彼一人ぽっこり浮いてる感じがするんです。確かに、竜馬(若干土方)辺りは対になる部分はあるかとは思うんですが、竜馬に関して言えばあくまでも狂言回しとしての役割が強く与えられて(最上位に立ってるというべきか)、近藤と対比させられては居ない筈なんです(土方に関しては、明確に山南さんという存在が在った)。
 しかも、近藤という存在は他者にとっての「鏡」であり、他者は近藤にとっての「鏡」という創りをしてるんじゃなかろうかとも。

 他の面々の光や特徴が対比で浮き上がるとすれば、近藤の場合周囲に居る面々と同化しつつも取り込む事で、それらが浮き上がってくる創り方にしているような気がしてなりません。
 巧く表現できませんが、スポットライトの色が一人だけ違うというか。他者は其々が強烈な色だけど、近藤一人が真っ白な感じがするんです。しかもその白さは回を追う毎に強くなってきているような、もしかしたら今まで周囲にあった光の全てが集まり更に白さが増したというか...そんな感じを受けてます(よく解らない表現で、ごめんなさい)。
 同化するが故に他者の「鏡」にもなり得、近藤が各人の何かを内包し、各人がそれを更に反映させてる気もしています。だからこそ近藤勇の物語でありながらも「群像劇」として成立しているように思えます。

 極端な感想に走りますが、「新選組!」は最終話の近藤の一言の為だけに残り48話があるんじゃないのか?そんな気すらし始めてます(長い長〜い助走かもとすら/苦笑)。

[上記から若干ズレますが…
 近藤に関しては、よく言えば「柔軟で多様性に富む」、悪いえば「己が無く、優柔不断」な感じを与えるような創りを故意にしてるんだろうかと穿ってみたり。だから、巷で「近藤が『いい人』すぎて深みがない」と言われるのは、こういった部分からだと思ったり(香取のスケジュールの都合だったり、編集の所為かもしれませんが/酷)。
 しかし、私自身は決して「いい人」だけではない近藤が居ると感じてます(具体的には難しいけど/苦笑)。武田を許す場面にしても、伊東との会談にしても、対峙している人間にとってある部分一番「厳しい」選択を与えてるんだと思うんです。そこに芹沢暗殺以降の「鬼になった」近藤勇があるんじゃないかと。そんな風に感じています。
 しかも、三谷の描く近藤なり土方達は、人を斬る痛みとか斬られるもの痛さ・辛さを解ってるという前提があるから、敢えて「生かす」方向になるのではと、かなり穿ってみたり。]

 こういった部分で、三谷幸喜は「ドラマ」を描いているのであって、「歴史ドラマ」や「人間ドラマ」は決して描いてないと思ったりしてます。何かにもがいて抗って受け入れてる「普通の」人達が紡ぎだす、その様を描いてるんじゃなかろうかと。
 そういった人が見せる「おかしみ」や残酷さ、哀しみ、強さ、弱さ、優しさなんかを描いてるんだろうな、と思ったりしてます。それが偶々「歴史ある『大河ドラマ』」で「歴史」を題材にしなくちゃ駄目だっただけであって。

 三谷ドラマとしての軸は決して揺らいでないし、ズレて無いよな…と思うようになりました。

 といいつつも、「新選組」を下敷きにして、この役者陣で現代に置き換えて『王レス』のスタッフで、1年間の連続ドラマであったなら、理不尽なバッシングも少なかったろうし、無意味な演出・編集で壊されることも無かったろうし、もっとテンポ良く更に面白かったんじゃなかろうか、と思ってみたり(苦笑)。

ホントいつも以上に纏り無く、良く解らない文章だと反省してます。
最後までお付き合いくださった方、有難うございますとすみません(--;;です。