2004年9月28日火曜日

同じ場所をくるくると

 38話になって落日編(だっけ?)に突入ましたが、31-33話の山南さん土方の関係、山南さんの死、そして山南さんが残したモノなんかを、整理がつかないままずるずると引き摺ってます。34-36話ではそれほど気にしなかったのに、松原・河合の死で再び舞い戻った感じです。
そんな折、日参しております猫右衛門さまの「ろくでなしの日々」こっそり昔を振り返るの巻の、

山南サンにとってみたら、そう言うことで、歳三に山南サンのことを綺麗に捨てて欲しい気持ちもあったんじゃないだろうかとも思う。
悔やむ必要のない正しいことだったのだから、囚われることはないのだと。
そういう意味もたぶんに含んでいただろうと思う。
けれど、“情”を残された方はそうはいかないわけで。
山南サンがあそこでもし歳三を“否定”したなら、歳三は山南サンを引き摺らなかったんじゃないだろうかと思えるのです。


 部分に琴線を弾かれたと言いましょうか。私も土方は山南さんの死を「昇華」仕切れてないと感じてお り、何かやもやしてる部分を整理できるかもと思い、相変わらずまとまりの無い文章をつらつらと重ねてみようと思った次第です。

 当初、土方の変わりようを見て(ある種の凄みある透明感な佇まい)、彼だけは山南さんが残した「想い」を理解し(くみとり)彼なりに昇華したんだと思ってました。
 が、37-8話の土方を見て感じたのは、もしかしたら彼一人が「囚われたまま動けない」んじゃないかという事でした。他の幹部(特に近藤)はそれぞれに山南さんの死を(それに至るまでの過程も含んで)、曲解しつつも(したが故に)昇華したんだと思えたのとは対照的でした。

 土方は「自ら命を絶つ事を目前に」全てが昇華された山南さんに(生涯で最も「綺麗で透明な」山南さん言い換えても良いかも)情をかけられ、土方の行為や想い(感情)を受け止められたが故に、思いを捨てれなかった。
 そして、一番辛い時に思いがけず「抱きしめられた」が故に惑わされ、山南さんが本来伝えたかったり示したかったであろう「意義」や「言葉」が伝わらなかった。それ故、土方はずっと山南さんの死を「昇華」できず、未だに「山南さんの死」の中でもがいているんじゃないのかと、そんな事を37-38話で思いました。
 土方は山南さんから何かを「許された」ことで、本当の逃場を失った気がしてます。
 
 じゃあ山南さんが土方へ残したかったことは何かと考えると。

 山南さん自身は、土方に新選組の未来を「託した」と思いたいのです。
 彼の死で土方の激流を止めたかった(方向転換や流れを緩めたかった)のではと。彼の激流を変えることが、新選組の未来を変えることになる。新選組を動かし変化してくのは、共に基礎を作り上げてきた土方にしかできないと思ったからこそ、最後に彼を許し抱き止めた。

 けれども、山南さんが望んだ新選組の姿は、38話現在の土方が強固に作り上げようと(守ろう)としてる組織ではなかった。もっと、柔軟で未来を築く組織であって欲しかったのでは。
更に言えば、彼の死を持って「法度」の成立過程を見直し、本来「法」が持つ「幅」を取り戻そうとしたのではないかとすら思います。
 言い換えれば、法だけで縛り付けることの「怖さ」や「脆弱さ」を彼等に知って欲しかったのかもしれません。

 しかし、あの時の土方にとっては「許され、抱きしめられた」ことで「彼の道」を許された事になってしまった。また、その事で土方は「修羅の道」から引き返せなくなり、その道幅にゆとりがなくなった状態で規定された瞬間だったかもなと。
 そして、土方にとっては「山南が法度を守って死んだ」その事が強烈に焼きついた。だから「山南の死が無駄になる」という言葉になるんじゃないかと。

 38話現在「法度」が一人歩きし、土方ですら制御できないものとなったことに、誰一人気づいていない様なきがします。今の土方を見てると、本当なら制御する為の手綱を持ってる人間が、法と言う名の「馬」から振り落とされそうになってる気がします。

 新見が死ぬ間際に山南さんに言った「(法度に)足元を掬われないようにな」が、今になって重く感じます。もしかしたら山南さんは、新見によって「法」の怖さを知ったんじゃないのかと、今更思い当りました。そして、制御してる筈が縛られることになる事も。
 だから、土方がまるで覚えての言葉を知った子供のように、事あるたびに「法度に背いたら切腹」と言う事が不安になった。土方はその不安に気づくことが無く、徐々に二人の溝が広がっていったんじゃないかと思いました。

 山南さんが身をもって示しても、尚この溝は埋まることが無かったんだと…。
それは最後の最後で山南さんが「許し」てしまったからだと思うと、なんてすれ違いばかりの二人なんだろうかとむっちゃ腹立たしくなりました。