2005年7月28日木曜日

夏の読書感想文 「グロテスク」

 「グロテスク」 桐野夏生(著)

 これでもかとばかりに描かれる「悪意(差別)」(或は「社会の縮図」)にただただ翻弄されました。
和恵とユリコとミツル。彼女達を悪意ある眼で見続ける語り手。
 それぞれの「生き様」はある意味「異世界」。にも拘らず描かれる各人の内面は、「自らの内」にも存在し、彼・彼女達を取り巻く悪意ある環境も確かに存在してる。ただ、それらを敢えて見ないよう(気づかないように)してる。だからこそ、ここに描かれる内と外の「悪意(差別)」は現実的で、物語から逃げる事ができないように思います。

 桐野さんの人が抱いている悪意や闇の描き方は秀逸。またその筆致が冷静且つ淡々としていて、心地良さを覚えて心惹かれる作家さんです(あと読後感の良さとか、芯の揺ぎ無さとかも引かれる理由だと)。
 しかしながら、それ以上に現実の厳しさや闇から眼を背けない厳しさや同時にどこかで「救い」を与えるような視線の優しさが感じられてなりません。しかも彼女が示す「救い」は決して「一般的」な形ではなく、ともすれば「間違った生」を彷彿とさせるようなものが多い。でも、作中人物にとってそれらは乾いた砂が水を求めるように欲した根源的な「救い」なんですよね・・・。
 さらに、彼女達は「自らの内」の闇が希求するものを確実に手にする。それが社会的にどうであろうと、人が求めようとする「欲」や「足掻く様」は読んでいて引き付けられます。尚且つ、ちょっと艶(露骨な表現であっても切なさや悲しさ、繊細さが感じられます)もあり、読了後に何かが残る。

 『OUT』にしろ『柔らかな頬』にしろ『グロテスク』にしろ「母性」が、女性の「業」として描かれてる気がしてならないんです(主題ではないですが)。女性が本質的に持つと思われがちな「母性」(母性にしろ父性にしろ子供と一緒に育まれるものだと思ってます)を全否定や全肯定で片付けず、「母親」が抱くであろう「愛情」と同時に「独占欲」や「支配欲」といった負の「情」や「憎しみ」を描いてる。
 特に、「母娘」の関係の描写はホント巧緻だな〜と思うんです。離れたいけれど離れられず、互いに何かを共有し共存つつもその関係を破綻させたいとか...。
 「日常生活」で存在してるんです、そういう感情って。ただそれは余りにも「醜い」から見たくないから眼を背けてるだけなんだ...と(決して我家親子関係悪くないですよ、とちょっと言い訳してみたり^^;;)。

 況や、対社会や対他者、対異性に対しても同じなんです。
 「社会」や「異性」「(距離的に)近くにいる他者」の目も省かずに描かれており、どこまでも容赦なく「現実」を突きつける。そして、それが否が応でも距離感や厳しさを感じさせ、必死になる彼・彼女達の行動思考が嫌悪感を抱きながらももどこか同調してしまう、そんな小説でした。

 上記を書きながらふと思ったんですが、女性作家さんが書かれる作品って、人間関係や社会との関係に対してシビアとういか、現実社会に媚てないといえば良いのか。
 「自己の内」と「社会(他社)」との間に存在する距離感や、距離感があるが故の葛藤や諦観や孤独感とかを見据えてる感じがしてなりません(何を言ってるのやら^^;;)。
 兎に角、そんな感じの視点の作品が多いなぁと。例を挙げるなら、高村薫さんの作品や小野不由美さんの「十二国記」シリーズ・「屍鬼」(「黒祠の島」はちょっと違うと思う)、篠田節子さんの「女たちのジハード」他にもあると思いますが、とりあえず思いついた分だけです^^;;)。

 男性作家さんもそういった作品あるとは思いますが、直ぐに思いつかなかったんで、もう訳ありません。