2016年7月9日土曜日

野村萬斎版『マクベス』鑑賞雑感

 びわこホール上演された野村萬斎演出・出演『マクベス』を観てきた雑感です。
『マクベス』自体にちては、舞台は去年の佐々木蔵之介一人舞台版が初めて、映像作品はサー・イアンとデンチ様の作品をちまちま眺めて、戯曲については松岡さん版を2-3読した程度の理解しかなド素人です。
 なので間違った感想が大半かと思います。すみません...。


・萬斎氏の舞台は狂言含めて初めての鑑賞でしたが、氏の声が響きと滑舌が素晴らしく、滑らかでしなやかで躍動感のある動きと僅かな動きや止まった時の無音さそれぞれが美しく、静動の差から生まれる張りが見事であっという間の鑑劇時間でした。
・極度にシンプルでありつつ外連味のある舞台美術と狂言的な雰囲気のある萬斎氏のマクベス像がピタッとハマっていたのも美しさをより深く印象付けた気がします。
・マクベスとマクベス夫人が「分離」したタイミグがやっと理解できました! 松岡さんの解説本を読んでいたせいもあるんでしょうが、バンクォー殺害で二人の距離感が開いた! というのがはっきり見えました。だから、マクベスが不安を埋めるかのように次々と殺戮を重ねていく心理状況が見えた気がして。繰り返し観ること、解釈を知ることで見える世界が少しずつ少しずつ広がっていくんだなぁとしみじみ。

・萬斎氏のマクベスは勿論のこと、三人の魔女がほんとに本当に良かったんです!!
・三人の魔女役がマクベス夫妻以外の登場人物を演じることで、マクベス夫妻が見て体験してる世界が魔女たちが見せてる悪夢なのかというようにも見えて広がりをより感じた気がしました(現実と虚構・夢・妄想の境界線が曖昧になった感じというのか...)。それが、シンプルな舞台で暗転無く一気にマクベスの栄枯盛衰を見せる演出と噛み合って、血なまぐささが薄れ「邯鄲の夢」的になったというのか。
・3人の魔女がマクベス夫妻と対立する役を演じることで、彼らは生身でなく魔女の化身であり、彼らの意思でマクベス夫妻の命運が左右されていくっていう解釈は、本国で上演された時どう受け止められるのか興味が生まれました。もしかしたら、過去からある解釈なのかもしれないんですけど...。

・舞台美術がとっても好みでした! 紙吹雪と大きな四角い布と丸枠の衝立と上がり布と枠だけで全てを表現するシンプルで想像力を刺激してくれるのが!!!! 出演者が布を上げ下げしたり、衝立を動かしたりすることで舞台が変化していくのが、ほんとに素晴らしかったんですよ! 暗転が無いからスピード感もあるし、マクベスの栄枯盛衰を一気に追っていく感が強まったような。


・終演後のトークショーで萬斎氏が「(この演出は)人と自然の対立を意識して」とか「マクベスたちは魔女たちに踊らされている。」的なことを仰っていたのに膝打ちでした。。その解釈は日本の文化的な解釈であるかもしれないけれど、日本で日本語でこの作品を理解する一つの方向であるよなぁと。
終演後のトークショーででもう一つ日本の文化が背景にあるから生まれて納得できる演出だと思ったのが、マクベスの栄枯盛衰を四季で表現してた、と仰ったことです。スコットランドの四季がどうなのか恥ずかしながら全く知らないんですが、今舞台で表現されていたみたいに春の桜夏の蝉時雨秋の紅葉冬の雪ってことは無いんだろうなぁと。もしかしたら、もっと荒涼として四季というより長い冬と短い夏なのかもしれない。そこから生まれた物語を日本的に解釈できる戯曲が持つ懐の深さを改めて感じた気もしました。

・去年は一人マクベスで今年は5人マクベスと削ぎ落とした版『マクベス』ばかりを見てるわけですが(笑)、そろそろちゃんとした『マクベス』も見なきゃなぁと思ってる次第。まずは、サー・イアン版の円盤をちゃんと見て、次にサー・パトリック版の円盤をそろそろ見なきゃなぁと何度目かの決意をしてます(笑)

・個人的に期待していた砂羽さんのマクベス夫人が申し訳ないけど残念でした。多分、若かりし頃のデンチ様版が印象に残っていたからかもなんですが...。何が悪いっていうわけじゃないですが、迫力とか内に秘めた野心や野望、夫の望は私の望み的な渇望みたいなのが感じられなくて。あのマクベス夫人だったら萬斎マクベスの内声的な演出のほうが良かったのじゃないかと思ったり。
・萬斎氏が付け加えたオリジナルの台詞は正直どうかと思ったですよ...。Tomorrow speech と呼応してるようでしてない気がして...。

・そんなこんなで萬斎氏の Tomorrow speech を聞きながらサー達のが聞きたい! と猛烈に思ったので自分用に貼っておきます(笑)