2015年3月1日日曜日

蜷川幸雄演出『ハムレット』鑑賞雑感

 とある事情で急遽、蜷川『ハムレット』2/27昼公演に行ってきました。折角なのでまとまらない雑感などを残したいと思います。

 蜷川版のみならず『ハムレット』を生で見たのが初めてなので、解釈など間違っているかとは思いますがご容赦いただきたくお願いします(蜷川幸雄演出の両手で数える程度、『ハムレット』の映像物は数種類、戯曲は数度再読してはいますが、如何せんライブは異なるものだと思うので^^;)。


 鑑賞後すぐの感想としては、よくも悪くも「蜷川幸雄のハムレット」だというものでした。上演時間が休憩含め3時間10分と短かかったため疾走感があり、役者さんの動き、語り、音響、光全てに静動のメリハリが見事だった舞台であったと思います。それ故に、『ハムレット』という物語の軸がすっきり見えたようにも感じても居ます。と同時に、そんな風に良かったけれど、何か物足りない感じが拭い去れないのが正直な感想です。これはおそらく、蜷川幸雄氏が突き詰めようとされてる「西洋演劇と日本の融合」が今作においては巧く機能してなかったんじゃないかと。
 確かに、お能や読経、ひな壇、禊という演出については、その意図も企みも違和感なく落ちてきて「おぉ!こうするんだ!」な驚きもありました。そして、登場人物の階級(王族と臣下市井)によって語り方やスピードを変えるのも凄く納得するんです。けれどけれど、それが全体として活かされていたかと思うと小さく首を捻らざるを得ない。
 何よりも、舞台設定である「19世紀後半、『ハムレット』が日本で初めて公演される前日の舞台稽古」が機能してなかったんじゃないかと思えてならないんです。
 1/28日に日経新聞に掲載された劇評( 彩の国シェイクスピア・シリーズ番外編「ハムレット」)では、
この新演出でも冒頭で「稽古」と断りを入れ、日本人が西洋演劇を演じる虚構性をはじめに明かす。
と評されてるのですが、その「虚構性」が見る側にどんな影響を与えたのかと思うと...。ただ、この設定があるがゆえにあの場面はこう解釈できるんじゃないかという幅ができたのも事実でもあって。そういう意味では活かされてたのかなぁ...とも思わなくなく。ホント、この部分については、素人なため意図が理解できてないからかも知れません^^;;
 
 以下箇条書き雑感。
・先に、この舞台が今年5月にUKバービカン・センターでも上演されると聞いていたからかもしれないのですが、どうも「輸出を前提とした日本的な演出」と思えてしまう箇所が多くて、それはどうなんだろうか?と。
蜷川幸雄演出の『ハムレット』は1988年に氏が演出された渡辺謙主演版(「ひな壇ハムレット」と称されてる作品)を映像で繰り返し観てただけなんですが、それでも似通った雰囲気があるように感じました。特に、オフィーリアが荻野目慶子さんを彷彿させて...。今回の満島ひかりさんが悪いわけでなく、蜷川幸雄氏のオフィーリアがそういう解釈なんだろうと思ってます。
・藤原竜也氏の圧倒的な存在感や動きセリフは好きだし見事だったと思うんですが、如何せん声が辛いと感じました。滑舌も良いし響きはするんだけど声がハムレットじゃないよなぁと思ってしまったんです...。う~ん、文化の違いもあるから仕方ないのかもしれないけど、複数のUK役者さんがインタビューで「役の声を探す」と度々仰ってるのを見聞きすると...。
・平幹二朗さんのグローディアスは良かったなぁ。朗々と響く声と抑えても激高してもきちんと何か(感情だったり思惑だったり)を乗せてこられる技術!! 後から今80歳と知り驚くとともに、その矍鑠とした素晴らしい存在を拝見できただけでも良かったなぁと噛み締めました。
・たかお鷹さんのポローニアスも良かったなぁ。ポローニアスって道化が出てこない「ハムレット」における道化の役割だと思ってるんですが、それを再確認できた感じです。たかお鷹さんの声も響いて、この方の違うお芝居を観てみたいと思わせる魅力を感じました。
・意外に印象に残ったのが、レアティーズとホレイシオ! 特にレアティーズの満島真之介さんは立ち姿も殺陣も迷いが無くてある種の清々しさを感じたほど。そして、ホレイシオは傍観者、語り手としての役割が強調されていたような感じが非常に良かったなあ。
・で、一番驚いたのがフォーティンブラス...。あの中二病というか2.5次元(好きな言葉じゃないですが)的なフォーティンブラス像は良いのか?? あのフォーティンブラスを5月にロンドンで披露するのか????と突っ込むしか無く...。いや、検索したらあれが蜷川幸雄さんの斬新な解釈らしいんでそうなんでしょうが...。けど、演出といえどもセリフが聞こえないのはちょっとどうかと思うんですよ。

・「稽古中」な設定として考えると腑に落ちるのが、デンマーク王室の言い回しがゆっくりで若干大仰だったこととクローディアスとガートルードの関係性。
 前者は、「19世紀後半に居たうまい役者が演じてる」とか「身分の高い人だと19世紀後半の観客に分からせる為」と解釈できるのかなと。そうじゃなきゃ、他の方のと違いがある意味が見えないんですよね^^;; で、後者は、如何にも芝居でいちゃいちゃしてますよぉと見えたのは、あれが舞台の稽古で役者同士がそう見せてるからだと思うとこれも上手い!と腑に落ちるんです。というか、ここまでこねくり回さなきゃいけない演出ってどうよ...とか入れ子状態である意味がわからない...と最初に戻るんですが。
  ただ、その入れ子式だと思うと、ハムレットとガートルードの表現が生々しかったのはどうよ...とも思う私がいるんです。そう言った意味で、一貫性があまり感じられなかった。
・一貫性で言えば、時代設定がね...。和と洋を折衷したかったのは分かるんですが、なんでノルウェー軍進行時の音にヘリコプターが入ってるんだろうかと。お能や読経や鐘という和の音をメインで使ってるのに、あの部分だけ違和感しかなかった(観劇後の感想会でフォロワーさんに「ノルウェー軍は異次元なんですよ!時代を超えてるんです!」と言われて大笑いしたほど)。

 多分これだけ違和感を覚えたのは、昨年スクリーニングで観たNT Live『ハムレット』のせいなんだろうなぁと思います(笑) シェイクスピアのお膝元であるUKのナショナル・シアターで上演された作品と、翻訳された言葉を紡ぎ演出する本邦の作品を比較するのは間違っているのかもしれません。が、それでも『ハムレット』という作品であれば比較されても可笑しくないのではと思います。
 演出家や役者がどう作品を分析、解釈し理解するかの差が作品の質に直結してると思わざるを得なかった。時代を移して斬新な演出をする為には、作品の背景や言葉の意図なんかを細かく分析して自身の解釈を見つけて舞台作品として投影するって過程の必要性さを薄っすら感じた次第です。
 NT Liveの『ハムレット』は英語で日本語字幕であるにもかかわらず、セリフがセリフじゃなく「言葉として」スーッと入ってきたし、なぜこういう言動になるのかが違和感なく落ちてきたんです。ハムレットだけでなく、グローディアとガートルードの関係もこれまで何があったかが透けて見える感じもあったし。それって、技術的な部分も大きでしょうけど、やっぱり解釈なんだろうなと改めて。(RSC版も輪郭が見える感があるので、多分演劇に対するアプローチが日本とは異なるんだと思います。)
 けど、今回の蜷川幸雄版には「だから??? なんで?? 突然どうしたの????」が拭えなかった...。確かに、ハムレットの孤独や狂気は演じられたけど...。鋭さのあるハムレットを観た後だとこねくり回してるだけのようにも見えてしまい。そして、今回の藤原君と『ハムレット』を演じた時のローリー・キニア氏がほぼ同年であること検索して知って、才能とそれを育む文化に仰け反るしかなく(あと、ローリー・キニア氏の老成っぷりにも/笑)。
 NT Liveを日本で上映してくれてありがとう!!! 『ハムレット』再上映お願いします!! な気分なったのが収穫でした。

 余談ですが、今夏のベネディクト『ハムレット』が楽しみなような怖いような気持ちになりました(笑) 共演者とのバランスもかなり影響が大きいと思うので、大成功とは言わないまでも酷評だけはされませんように...!!と祈る気持ちになってます。