2014年2月27日木曜日

NT Live フランケンシュタイン 雑感

 ベネディクトが2011年に出演した舞台『フランケンシュタイン』ライブストリーミングの雑感です。Twitterでも呟いてはいたのですが消化不良感が残ったため、長文を気にしなくても良いこちらで思いつくまま置いておきたいと思います。(あと記憶が鮮明なタイミングで残しておきたい)



  この作品はご存のように、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが公演ごとにクリーチャーとフランケンシュタイン博士を演じる形式でした。そのため、ベネディクト・カンバーバッチが博士(以下 BC博士)をジョニー・リー・ミラーがクリーチャー(以下 JLMクリチャー)を演じるA日程、ジョニー・リー・ミラーが博士(以下 JLM博士)をベネディクト・カンバーバッチがクリーチャー(以下 BCクリーチャー)を演じるB日程を2週に分けて上映されました。私は幸いなことに、両日程とも2回鑑賞することができました。その上で、週替わりでの上映でなく同日にAB日程を交互に上映したほうが良かったのでは?と思います。
 なぜなら、B日程を見た後にものすごくA日程を見たくなりました。そして、A日程見たらすぐさまB日程を見たくなるだろうと間違いなく思う筈。それだけ、両日程の印象が異なり、見る度に深く知りたいもっと細部を観たいと思わせる力に満ちていました。なので、この上映日程はほんとに勿体無いなかったなぁと。

 そして、この舞台の原作となった小説は2年ほど前に光文社の新訳で読了済みです(読書メーターのログによると2012/6/16 読了)。因みにその時の感想は
図書館。某英国役者が演じたということで興味を持ち、原作にあたってみました。 紳士であるフランケンシュタイン氏が怪物を語る言葉や視線があまりも冷たく酷く、反対に醜悪で人でない怪物が愛や優しさを求める言葉が切なく響く。このコントラストが美しく胸打たれます。が、正直情景描写が多く冗長であったのも否めないです。 しかし、創造主たるフランケンシュタイン氏が怪物を初見から忌避するのは、擁護出来ないなぁと。 フランケンシュタインと怪物。そりゃどちらも某英国俳優は演じたいと思うわなぁと明後日方向で納得。

というものでした。舞台の印象も原作読了後の印象と大きく変わりませんでした。逆に、冗長だと感じた部分がザックリ削ぎ落とされ「博士とクリーチャー」もしくは「創造主と非創造物」という構造がくっきり浮かび上がった印象を強く受けました。そして、視点をクリーチャーに置いたことで、「生命とは? 人間とは? 愛憎とは? 善悪とは? 」というテーマがよりシンプルに見えた気がします。

 この舞台において、愛憎・生死・善悪・美醜・主従などは対立しぶつかり合うものでなく、向かい合わせのモノとして描いてる気がしました。いつでも互いが入れ替われる存在というのか、底で繋がっているというのか、境無く交じり合いそうで交じらないというのか...。OPで「博士とクリーチャーは互いに影響しあう。鏡である」的なことを言ってたのは、そういうことなのかとも思ったりしてます。
 また、「人とは何ぞや」「人が人であるということはどういうことなのか」が目の前にドン!と置かれてた感じもあって。それについては、グルグルするばかりで言葉にならないもどかしさもあり...。
 鑑賞終わってそろそろ1週間が経とうとしてる今でも、うまく消化できておらずすっきりとした形での感想が出てきません。反芻したり脚本をチマチマ読んだりしながら、着地点をモダモダと探してるような覚束なさです。

以下、そんなまとまりなく右往左往してる上、躊躇いなくネタバレしてる箇条書き雑感です。


・A,B両日程を見終わって一番感じたのは、演じる役者でこうも異なる作品になるのか!!という驚きでした。カメラワークはかなり異なっていましたが、脚本も演出もほぼ同じなのに受ける印象やテーマ性、余韻、言葉の保つ意味が全く違ったように感じたんです。(演出はもしかしたら一部違ってたように思うのですが、記憶違いな可能性も拭えず^^;;)
 役者の解釈、個性、資質の違いが作品にここまで影響を与えるということに驚くと同時に、同じ役柄を交代で演じてみせることで役者の力量というものが薄っすら透けてる感じさえあり...。その意味では非常に怖い試みだと思ったりもしました。

・作品としては、正直A日程の方がまとまっていたし完成度も高かったと思います。JLMクリーチャーの無垢さ幼さとBC博士の知に溺れ傲慢でどこか人として欠けてる人物像が、とても明快に美しく対立し噛み合っていた。B日程はひたすらBCクリーチャーが圧倒的だったせいかJLM博士が平凡に見えてしまう場面があり、博士の異端としての苦悩が薄まった気がしてバランスはよくなかった気がします。

 けれど、強い印象を受け記憶に残るのはB日程だと断言します。実際、カーテンコールでスタンディング・オベーションがA日程より多かったのも宜なるかな。それは偏にBCクリーチャーの圧倒的な存在感に起因すると思うんです。どの場面でもその場を支配してたのはBCクリーチャーだったし、相手を飲み込みそうな勢いと磁場がありました。一瞬たりとも目が離せないくらいの吸引力があったというのか...。TLで「舞台荒らし」と表現されてる方がいて納得したくらい凄まじかったです。

・BCクリーチャーとJLMクリーチャーの違いは、技量や資質の差な様な気がしてならないんです。BCの身体能力の高さ、表現力、どの言葉に重きをおいて演じるのか、役に対する解釈の深さに瞠目するしかなかったと言いたいくらいです。JLMクリーチャーも決して劣るものではないと心から思います。ただ、クリーチャーの解釈が「人になるもの」か「人でないもの」の違いだと思うんです。そして、私は後者の解釈とそれを表現したことに圧倒されたのだと思います。

・最後の場面の印象が全く正反対でした。A日程を観た後は破滅や死が思い浮かんだのに対し、B日程の後は希望や未来という言葉が浮かびました。

・BCとJLM以外の方達ですが、両日程で全く反応が変わらなかったことに正直驚きました。恐らく、二人の違いを鮮明にするがための意図があるんだろうと邪推してます。もしそうだとしたら、あの二人に引きずられないっていうだけでも凄いかもしれない...と思う次第。

・JLMクリーチャーからは幼子のような愛らしさと無垢さを強く感じたのに対し、BCクリーチャーは「異形」とか弾かれるモノという言葉しか出ませんでした。人型をしてる「人でない」存在。なのに、知性を持ち言葉を操り愛を語り感情に身を震わせる。その哀しさと違和感が、痛々しくありました。

・愛し愛される関係をより強く望んだのはどちらなのかと考えると、正直私には答えが出ません。JLMクリーチャーは幼子が親を求めるような愛情の交歓を求めていたように思うし、BCクリーチャーは自身を「人=精神を持つもの」として認められ、その上で交わされる愛情もしくは友愛を求めていたようにも見えました。どちらも「人」であるために必要な愛情であって...とグルグルするしかないんです。

・博士については、申し訳ないけれどBC博士の方が断然良かったと思うんです。
・BC博士は知に溺れるあまり感情を打ち捨て、知に勝ち過ぎるあまりに傲慢であると同時に弱い人な印象でした。が、JLMの博士は知を追いかける感じがあり、人としての愛らしさが滲み出てる感じを受けました。その差は大きかったなと最後の場面で思いました。
・フランケンシュタイン博士には、クリーチャーにとっての創造主であり支配者であり、脅かされながらその存在に縋る弱さもある。クリーチャーと対峙した時に、彼のすべてを受け止め彼の存在を否定しなくてはいけない。なおかつ、神になろうとする傲慢さ、科学の前にすべてを捧げる敬虔さ、罪悪感、自分が創った「生き物」対する嫌悪感。知と感情の間で揺れ動く弱さ。そんなある種マッドサイエンティスト的な要素が必要だと思うんです。それが、JLM博士は若干弱かったし、こぼれ落ちる愛らしさが役柄として転換しきれなかったような...。
・その反対にBC博士はベネディクト・カンバーバッチという役者のはまり役過ぎた気もしなくもない。ですが、シャーロックでもホーキングでもジョン・ハリソンが一切透けない凄さ。ヴィクター・フランケンシュタインが抱える影が見える感じもあって、安心して見てられました。

冒頭でJLMクリーチャーとBCクリーチャーが全く異なる「存在」なのが、ハッキリ見えたのが凄いと思ったんです。同じ脚本・演出・舞台装置なのに全く違うという凄さ...。
・JMLクリーチャーは誕生から歩くまでの過程を見た気がしました。膜からは自分の意思で膜から出た感じもあり。なので、彼が全身を使って初めて走る場面では、生を享受した喜びを共に感じることができました。対して、BCクリーチャーからは世界から弾き出されたという印象を受けました。膜から出た場面は喜びよりも困惑と恐怖が先にあったのではと思い、歩き走る姿には世界を認識し自分の肉体を確認し動き出すという感じを受けました。そのせいか、BCクリーチャーの動きを見ながら、人間の体とは電気信号の伝達によって動いてるんだと思った瞬間もありました^^;;

・朝日を迎え小鳥の声を聞きさえずりを真似る場面。
 JMLクリーチャーからは心から生命の喜びを感じました。彼にとってあの瞬間は幸福で喜びに満ちていたのだろうと。対して、BCクリーチャーからも喜びを感じたんですが、どちらかいうと自然や生命に対する畏敬を強く感じました。なんでなのかわかりませんが^^;;

・教授の家が上から降りてくるのを見て、まるで水の中に落ちていく様に見えて。演出の意図がとても気になった場面でもありました。知と愛情を学ぶ場所が「水底」にあるということは、あの場所は外界から閉ざされ何ものにも影響を与えらない「楽園」のような場所だったんだろうか...とかウロウロ。
・JLMクリーチャーは純粋に知識を得ることや孤独でなかったことが、楽しかったんだと思うんです。対してBCクリーチャーは、知によって自らを構築してたのではないかと。対話により「人としての」振る舞いを学び、人に近づこうとした。その手段が知であり言葉であったのかなと。

・舞台上に引かれた線の角度変化と光で湖に見えるのが素晴らしくて...!!!私ここの舞台美術が一番好きでした(笑)

・山頂のクリーチャーと博士の対話。
 初めてクリーチャーを見た時のBC博士の歓喜に満ちた表情と声が印象深くてですね...。生物でも生命でもなく「創造物」としてしか見てないし、見事に動けるモノを創った自分の才能に恍惚としてる感もあって、人としてどこか壊れてると思った場面でした。その反対にJLM博士にはそこがあまり感じられなかったのが惜しかったよなぁと。
・伴侶を願うクリーチャーが哀れで哀しくてなりませんでした。クリーチャーにとっては、孤独から救われ愛情を分かち合える存在であれば異性でなくても良かったのかもしれないとふと。異性を望んだのは、教授宅で見えていた若夫婦の存在が、彼にとっての理想像になったからなのかなと
・ここからヴィクターとクリーチャーの境界が「愛」という言葉をもって、徐々に滲む気がしてます。
・特に「人とは何ぞや?」という問いかけが明確になされるのが、この場面じゃないのかと。知識があり感情を持ち善人であろうと努力し対話で解決しようとできる、けれど「人でない醜悪なもの」がすっくと立ち上がる。反対に、才能があり地位があり美しい容姿をもっているのにどこか壊れてる人。どちらが「人」なのかと。

・" Now I am a man." の言葉。JLMクリーチャーはまさに「男になった」でBCクリーチャーは「『人』になった」。成長の過程での性と人ならざる者が生殖を行ったことで『人』としての要素を満たした違いというか。この印象の差が二人のクリーチャーの差なような気がします。

・最後に博士とクリーチャーの主従関係が逆転してるようにも見えるし、クリーチャーの台詞にもそうあります。が、果たしてそれは真実なのだろうかと。互いが相手を「主」であると見ているだけで、実際はお互いの孤独を分かち合ってるだけでないのだろうかと思わなくもないんです。何が主で従なのかすら曖昧になり、一つに溶け合おうかとしてるような...
・クリーチャーが「死ねるだろうか」と問いかけたのは、それが生命や人しての正しい終わりだと知ってるから他ならないんです。その部分に関してはBCクリーチャーの方がより強く伝わってきました。だからこそ、JLM博士の「壊す」が意味を持つ。

・台詞の言い方が残ってるのがBCです。歌うように吟ずるように、相手役にも観客に対して言葉を紡ぐ素晴らしさ...。ベネディクト・カンバーバッチが舞台役者として評価が高いのがわかる気がしました。

余談ですが、原作があると分かっている作品を鑑賞する場合は、できるだけ原作に目を通してから鑑賞するようにしてます。その理由としては、一読することで全体像が掴め作品に躊躇いなく入っていけるのと、活字と映像の違い、作り手の解釈などが見えるのが興味深いから。
 あと、多少字幕に不備があっても脳内補完で作品の軸を間違わずに観れるっていうのも大きい理由かな。

・監督がダニー・ボイルという先入観があったせいか、スチーム・パンクっぽい舞台美術にロンドン五輪の開会式(産業革命パート)がふと過ぎりました。 と同時に『フランケンシュタイン』の舞台も産業革命時代だなぁと視覚的に納得した感じもあって。


 全然何が書きたかったのか自分でもわかりませんが、抱えてたものを吐き出せてすっきりました(^^) もし再上映が関西でもあるのであれば、足を運んで観たい作品です。そして、覚えている間にスクリプトを最後まで読んで反芻して少しずつ埋めていきたいと思ってます。