2007年8月13日月曜日

『コンフィダント・絆』5/24観劇 感想

 2年ぶりの三谷新作舞台ですが今回は躊躇いがあり、先先行発売や先行発売で入手する事はしませんでした。発売時期にイベントが重なっていたりと言い訳は色々あるんですが、躊躇いの大きな部分を占めていたのは「どうやろう...」というモノでした。また、Wowowで生中継するやろうし、無理に入手しなくてもなぁといった部分もありました。
 なのに、某プレイガイドから届くダイレクトメールのしつこさに負け、一般発売後しばらくして入手したんです。
 結果として、複数回行っとくべきだった!と後悔しました。えぇ昨年の『12人の優しい日本人』や映画『有頂天ホテル』で感じた、確かに巧いけど...どうやろ??的な部分が全くなく、上演中は三谷幸喜と役者が作る世界に引きずり込まれ、上演後は色々考え込ませてくれるという素晴らしい体験をしました。

 行く前に読み倒していたWebに上がってる感想で、「泣けた」「号泣」「涙を誘われた」が多く見られましたが、私は泣けませんでした(_;;;;。確かに、泣きツボと思われる二幕の最後は「痛い」し、思いっきり「抉られ」ました。
 けれど、涙腺は緩まなかったんです。理由は、舞台で広げられてる光景が、あまりにも「現実」だったからだと思います。
 凡人が凡人であるが故に気付かなかった、「天才との歴然とした差」を天才たちに指摘される。けれども、彼らに「友情」を感じている凡人は、その場で彼らに「許しを請い」その「友情」の継続を希う。しかし天才達は彼に「違い」を告げた事により、彼が希求する「友情」をも否定し去っていく。

 確かに「きつい」場面でした。
 だからそれを観ている間中「抉られ」、凡人と同様に傷ついてたし、痛いと感じました。
 そして、鑑賞後も何かが澱(不快なモノでは無い)の様に残ってる。鑑賞後もそれを咀嚼し何らかの形を与えなきゃと思ってはいるんですが、中々形(言葉)に出来ないまま塊が残ってます。
 これは、映画『アマデウス』でサリエリに同調しつつも泣けないのと同じなのかもしれません。

 この形に生らない「塊」は、最後の場面だけに起因しておらず、全編を通じて何か細かく引っかかりそれが最後の最後で「塊」や「澱」となった様に感じています。
  4人の画家の個性。それぞれの間にある見えない「溝」。一人の女性が彼らの間に入る事で、化学変化が生まれ少しずつ浮き出てくる「違い」。「優しい嘘」で隠す事で浮かび上がる「真実」。そんな積み重ねをこれでもかと丁寧に描き、演じるからこそ、最後の場面が酷く優しく痛く突き刺さって来たように感じるのです。

 長くなりますが...戯言めいた雑感を。

 座席が4列目ど真中だったお陰で、表情の一つ一つのみならず小声で交わされる会話も存分に味わう事ができました(舞台全体が見えなかったのが悔やまれます^^;;)。
 言える事は、役者陣が兎に角素晴しかったです!!観ている間中一度たりとも「ヒヤヒヤ」しなかったし、安心して身を委ねる事ができました。

 役者さん的には、やはり天才ゴッホな生瀬勝久!!!!!
 46歳のオヤジなのにその表情や仕草が、マコトに可愛いったらありゃしませんでした(笑)。色男ゴーギャンな寺脇康文に甘え依存してる姿といったら、可愛さ大爆発でした(46のオヤジに対する形容詞じゃ無いですが^^;;)。
 なのに、キャンバスに向かう表情や画を語る真摯な表情や言葉。
 最後に「凡人」との境界を躊躇いも無く引いてしまう、無邪気な冷酷さ。
 己の才能に対する苛烈な自信とそれに同居している不安と虚無。
 見事でした!!
 一言で表現するならば、単に傍若無人で「神が与えた贈り物」を自覚してるお子様オヤジってだけなんですが、それが非常に愛らしかった(ってまだ言うか)

 その生瀬ゴッホに甘えられ依存され、才能に嫉妬しながらも彼を見放せない、かなり美味しい(のか?!)寺脇ゴーギャン。
 動きの煩さが活かされていて、観ていて華やかでした。中でも途中、赤いマリンバを振りながら踊る寺脇氏(Not ゴーギャン/笑)の姿は強烈な印象を残しました。
 もしかしたら一番「大人」なのが彼かもしれません。ゴッホの弱さやスラーの汚さ、況やシェフネッケルの優しさと弱さ、自身と彼らが持つエゴを理解して受け止めてる、そんな感じがしてなりませんでした。

 ゴッホの才能に圧倒され嫉妬しながら、自身の優位をさり気に見せける事で己を保っている。しかし、常に立ち居地を模索しているお坊ちゃまな点々画家、一番「人としてどうよ?!」な中井スラー。
 が、ある意味一番人間くさい人でした。数多有る台詞の中で一番強い印象を残したのが、スラーとゴッホの会話でした。
 才能あるものが知る天才との差。立ちはだかる壁の高さ。絶望、悲しみ、嫉妬、羨望。対して、自分が見えるものは「才能ある者には見える」という無邪気さと残酷さ。その対照的な佇まいに鳥肌が立ちました。

 で凡人の相島シュフネッケル。
 上記3人程強烈な印象は残さないものの、穏やかさや凡人の「勘違い」なんかは、巧かったなぁと。ただ一人穏やかで、周囲を気遣う事ができる人。誰もが「彼が居てくれるから」とその人柄に安らぎを感じている。
 だけれども、彼が発した「思い違い」な一言が彼らの関係に止めを刺す。そして、これまでの関係は一体何だったんだと、観客を巻き込みながら問いかける。
 彼は決して決して舞台上だけに存在するのではなく、「私(多くの人)」の姿でもあるように思います。彼の「勘違い」を笑う事は出来ても、彼の悲嘆を「可哀想」と嘆く事はできない。何故ならば、余りにも「現実の真実」がそこにあるから。彼が受けた仕打ちを「可哀想」と嘆く事ができるのは、「私と彼は違う」と思える人や、彼は「対岸の人だわ」と思えるだけに許されてる様に思うんです。だから、「私」は泣く事で「これは架空の話」として片付ける事ができませんでした。

 紅一点、堀内ルイーズ。
 語り手なのに傍観者ではなく、変化を与えた女性です。
 細かい事はさておいて、一言「可愛いぜ!!」でした(笑)。彼女の哀愁漂う雰囲気や、素晴らしい歌、可憐な動きや蓮っ葉な話し方がそれはもう非常に魅力的でした。カーテンコールで男性陣の間を軽やかに踊りながら移動する姿には、「ミューズ」としか表現できない雰囲気でした。
 役割的にはミューズなんですが、冷徹に4人の画家を観察してるのが印象的でした。

 最後に、彼らの間に「友情」は存在したのか?という問いに対しては、「あった」と答えたいと思います。
ただ、シェフネッケルが求めた形での「友情」では無かったかもしれませんが、4人の間には分ち難い「絆」が存在したからこそああいう形で「決別」したのだと思っています。ゴッホの冷酷な去り方、ゴーギャンの気遣のある別れ、スラーの居たたまれない去り方、何れもそういう形でしか「決別」できなかったのだと感じています。なので、最後に見せてくれた「共同アトリエを始めたばかりの4人」の姿が、懐かしく幸せだと感じる事ができたのだと。

 何らかの形でもう一度作品を観て、整理してみたいとは思っています。