2006年3月27日月曜日

『西遊記』最終回

 なんとか完走致しました(笑)。毎回ほぼ流し見に近い鑑賞だったので、感想を書くほどのことも無いかと思ってましたが、が、最終回を見て書くことに決定。

 理由は、初代孫悟空な堺正章氏のご出演に決まってるじゃないですか(決まってるのか?!)。

 まずは、新版『西遊記』に関して感想を少しだけ。
 今回の『西遊記』については否定的な意見が多いかとは思いますが、私はオリジナル版を予想以上に巧くリメイクしたんじゃないかと思っています。猿豚河童の愛ある罵倒のし合いとか、お師匠さんと孫悟空のちょっとした関係性とか(夏目三蔵と堺悟空のちょっとした遣り取りに、ドキドキした記憶があるもので)等々。
 とはいえ、う〜んと思う部分も不満も当然あります。が、最終回の初代悟空出演で全て水に流そうって気になりました(^^;;

以下、オリジナル版を懐かしむ内容です。

 テレビ欄に堺氏のお名前を見た時点で、完走は決定。登場されるなら、お釈迦様位しかないだろうと思ってたら、予想通り。素人に展開を読まれてどうするフジ...とは思いました。
 が、初代 孫悟空登場と共に『MONKY MAGIC』が流れ、華麗な棒術を見せいただいた瞬間、そんな事やあんな事(どんな事や?!)はどうでも良くなりました。それどころか、よくやってくれたフジTV!!と感謝の気持ちすら抱きましたよ(笑)

 それほどまでに、初代孫悟空な堺さんの棒術は美しく、華麗で、迫力があり、好々爺なお姿をされているにもかかわらず、孫悟空に見えましたもの!!!

 そして、出来うることならば、西田敏行さんと藤村俊二さん(岸部四郎さんは無理だろうな/苦笑)にも出ていただきたかったと思い始末。そう、脇侍のように!!お釈迦様=釈迦如来とするならば、文殊菩薩と普賢菩薩が付き従ってもおかしくは無い。初代お師匠様な夏目雅子さんがご存命ならば、お釈迦様は夏目さんで、脇侍は孫悟空と猪八戒だろうな〜と妄想が膨らんでしましましたよ(馬鹿)。

 また、棒術披露のみならず「緊箍児」を見やって「それ、痛いんだよね〜。ほんとに」とおっしゃるとは!!それはもう嬉しさの余り言葉を無くしたほどですよ(馬鹿です)。その台詞を聞いたときにゃぁ、深津三蔵は意外と躊躇いが見えたけれど、夏目お師匠さんは緊箍児の使用に容赦無かったよな〜と懐かしくなりました。ほぼ毎週のように緊箍呪唱えておられた様な印象がございます。また、唱える姿が美しいかったんだよな〜と思い出して、しばしうっとりしておりました。

 今回の深津三蔵も美しく、可愛らしく凛としていましたが、やはり初代お師匠さまの世俗から離れた雰囲気っては薄かった様に思いました。けど、最終回の深津三蔵は「流石 深津ちゃんっ」と思うことしきりでした。やっぱり巧い役者さんだと、納得でした。

 孫悟空は、頑張った香取君には悪いけどあの棒術を見た後じゃ〜堺正章さんでしょうよ(笑)。堺さんの柔らかな動きからくる美しさや、リズム感、迫力ってのはやっぱり素晴しいと思うんですよね。とは言え、香取君は、時折っとさせる表情や演技を見せてくれたとは思います(う〜ん偉そう/^^;;)

とりあえず、色々なドラマを見て十分楽しめた3ヵ月でした。

ドラマと原作 その2 『神はサイコロを振らない』

 ドラマに関しては途中で中弛みを感じたものの、私にとっては十二分に満足いく作品でした。というか、幸せな鑑賞時間を過ごさせていただけたな〜と製作陣に感謝です。特に、脚本の水橋 文美江さんには感謝感謝です。だって、あのどうしようもない原作を、あそこまで素敵な作品に良くぞ仕上げてくださった!!!とその手腕に惚れ惚れいたします、です。
 というか、換骨奪胎の好例なドラマでしょうね〜。

 このドラマを鑑賞している間、良い意味で揺さぶられました。決して「泣かせる作り」では無かったと思うんですが、登場人物の言葉や表情から見える彼らの想いに、幾度と無く感情を静かに揺り動かされ、時には涙腺が緩むこともありました。「可哀想」とか「辛いだろう」という涙ではなく、全く逆の久しぶりに感じる人の温かさや強さに対する涙でした。

 印象に残っている場面は、9話の黛ヤス子と大家本部長の対話です。勿論、あっちとやっち、ヤス子と哲の場面は全て、好きなんですが、より深く印象に残ったのは上の場面だったんです。
小林聡美さんと岸辺一徳さんの、何とも言えない台詞と表情・言葉を発するリズム、そして間の全てが完璧で!!!乾いた砂に綺麗な水がす〜っと染込んでいくような、綺麗な優しい場面だったと思えるからかも。

 また、瑠璃子ちゃんと母親、甲斐兄弟の最後まで穏やかで暖かな関係等々の脇の挿話も、(多少まごつきはあったものの)違和感無く綺麗に収めたんじゃないかと思います。とはいえ、瑠璃子ちゃんの美少女度には毎回ときめかせていただきました(笑)。いや、本当に透明感と少女特有の硬さを見事に融合した美しさにはため息ものでした。
 甲斐航星君の落ち着いた雰囲気には、将来有望か?とか万一『のだめカンタビーレ』が実写化されるとしたら、黒木君役は彼しか居ない!!と明後日の感想を抱いてました(笑)。
 そして、忘れてはならない桃子ちゃん。いや〜素晴しく可愛らしいお嬢さんでしたね〜。桃子ちゃんのエンタツ・アチャコ解説には毎回楽しませてもらってました。が、彼らの何が彼女の琴線に触れ、彼女をあそこまでエンタツ・アチャコマニアにさせたのか?!大層気になってしかたありませんでしたが(^^;;

 何よりの収穫は、今まであまり気にならなかった役者さん達の丁寧な演技を堪能できたことでした。中でも、ともさかりえちゃん(金田一少年〜のイメージが未だ強くて、「ちゃん」付してしまいます)の可愛らしさには驚きでした。彼女演ずるあっちの真直ぐな雰囲気が優しくて、愛おしいとすら思えました。何時の間にこんないい役者さんにならはったんやろう…と嬉しいような不思議な気持ちでした。
 山本太郎!!!えぇ太郎君にトキメクなんて誰が一体予想したでしょうか?!哲のヤス子への言葉とか表情とか、仕事に向かう最終場面とか、もう格好良いの一言でした。

 転じて、原作です(ドラマとの余りの差に愕然としたため、かなり感情的な文章になっています)。
 えっと、蛇足とは思いますが私の本全般に対する思いってのを書いておきたいと思います。
 これまで幾多の本や小説を買って読んできました。その中で確かに、文章と相性が合わないとか、思ったのと違うな〜とか、失敗したかも、なんてことは多々あります。また、己の理解力や基礎知識が無い(付いていかない)ため読んでいて中々頭に入ってこないとか、文章になかなか馴染めず読む速度が遅くなる、等々の理由で苛々することも当然あります(最近ではドストエフスキーの『罪と罰』。というか、ロシア文学。幾度か挑戦してみるんですが、尽く敗れ去っております--;;;)。勿論、買った(借りた)は良いものの、読了しないままの本も数多くあります。
 が、そんな本であっても読み終わった直後にゴミ箱直行なんてことは無い。どちらかといえば、今回相性が悪かったけれど、次読むときには大丈夫かもしれない、と淡い甘い期待をいだきつつ本棚に仕舞う。仕舞ったまま日の目を見ない書籍(本棚の肥やし)になってしまうんでしょうが、それは長い人生の中でいつかきっと日の目を見ることになるかもしれないし(以下エンドレス/笑)。という事で、本を捨てることに関しては、もの凄く抵抗感がある方だと思ってます。
 事実、どうしようもなくなって相方に「ええ加減選別して、どうにかしようか。お互いに」と言われ選別作業しても、うじうじ悩むでなかなか捨てられない。

 が、この原作だけは違いました。文字を追うにつれどうしようもなく苛々し、最終回までに読んでしまわなきゃと好印象なドラマの為だけに読了し、読了後はゴミ箱直行でした。
 ドラマと原作は全く別物ですよ!!皆さん!!

 何が徹底的に駄目だったのか。婉曲的な表現をするならば、相性が全く合わなかった所為。

 露骨な表現をするならば、読了後「何……これ………」と呆れ返ったというか、全く感想が思い浮かばなかった事実が一番近く適切な理由の様な気がします。ドラマのあの居心地のよさはこの原作には全くなく、あるのは、ただ「……」だけでした。

 その理由は、まず登場人物が見事に薄くて、人物が描ききれてない上に、書き分けられてすらないからなんですよ(涙)。
 著しいのが、黛氏(男性)と甲斐氏。本来ならこの「物語」(って言葉をこれに使うのも嫌なんですが)の主軸になるであろう二人なんでしょうが、描写が薄い上に書き分けられてないしなので、全く行動に意図が見えくなってます。その所為で、この二人の会話はどっちが話しているのかが、わかりにくいったらありゃしませんでした。
 この二人だけでなく、会話文全体が誰がどういう状況で、どんな(作中に於ける)意図があって話しているかが解りにくい。なのに登場人物だけはやたら多くて、あちこちで会話が交わされてて、正直疲れました。

 次に、挿話が本筋を見えなくしてること。
 冒頭より名前が出てくる「ミスターX」なる大層な名前を冠した人物が居るんですが、彼を主体とした挿話がこれまたどうしようもないほど活きてない。しかも、脇でしかない筈の彼にもの凄くページを割いてるのが、何の意図があってのことかがまったく見えない。解ったのは、彼を通じて「警察」と「公安」の類型的な鞘当を描きたかったんだろうな〜って事だけ(警察と公安の鞘当なら、高村薫氏とか横山秀雄氏の作品の方が、当然のことがなら迫力もあるし、緻密だし、日常の神経戦を疑似体験できる楽しさもあります)。
そうそう、アイドルの立てこもりっていう挿話も同じ意図があったんでしょうね〜やれやれ。

 本筋は、10年前に消えた家族と再会し、彼らが体験した「3日間の奇跡」を描くってのもじゃなかったんでしょうか??? が、そんな本筋は様々な無粋な挿話のお陰で、すっかり見えなくなる、一体何を描きたいのかがさっぱり見えませんでした。

 もっと登場人物を少なくして、「奇跡」に立ち会った彼らの内面や葛藤なんかを描けば面白くなると思うんですが、何れも表面を撫でてるだけ。
 例えば、夭折の天才チェロリストとステージママは互いを見ることも無く、個々の内面にも踏み込まない(ドラマでは相互理解って形でまとめてました)。
 早熟の天才物理学生と遺族会を立ち上げた父親(ドラマでの甲斐兄弟)は、息子は教授と共に原因解明に奔走する様子を描くのみ、況や父親の苦悩や葛藤なんざ表層をちょこっと描くだけ。
 10年前不倫中であったCAは、その結果を知り僅かばかり苦悩らしきものを見せるものの、最終日には彼女をずっと思って、遺族を支えてきた黛氏と結ばれ結婚を決意する。が、その軌跡がわからないから非常に唐突でしかない。
 政治家である父親を殺そうとした息子は、彼の喪失を期に生まれ変わりそれにより「大物且つ良心的な政治家」となった父親を、なんと!!たった2日で理解し、和解します(笑)。しかもこの大物政治家なるものの、どうしようもない位の(偽)善者若しくはヒーローチックたる姿には、なかなか疲れます。
 
 更に、場面の移動が意味も無く多く、それが私にとっては「なんで???この場面が必要なの??」としか思えなくて(苦笑)。
 この本は三人称、所謂「神の視点」で語られてます。それは、それで良いんです。が、その視点が無駄にうろうろ右往左往するんですよね〜。普通、三人称であっても何所かに基点となる部分があると思うんですよ。が、何所にも基点が無く「神」が興味のある方向に、それも気侭に動かすもんだから、三人称にもかかわらず「物語」が俯瞰できない。俯瞰できないのに登場人物も薄い所為で、近づいてもピントが合わずにボケまくって更に見えなくなる。重複する視点を使って、同時間を違う人や場面でもって語らせるのというのとは違う気がします。単に、何の構成も無く筆の進むまま、思いつく話を無作為に(ある程度の時間軸はありますが)放り込んだけとしか思えない。
 確かに三人称で近づいたり離れたりする手法は、物語を語る一手法としては正しいと思います。実際、奥泉光氏の『鳥類学者のファンタジア』なんかも独特な三人称(で良いのかな?あれは。一人称的な三人称と表現すべきなのか...。と悩ましいのは楽しいことです/笑)なんですが、浮遊感とかを感じることができ、物語自体の不思議さと相まって非常に楽しい読書時間をすごさせてもらえたし。
 けれど、この作品に関してはドラマのようにある程度「主軸」を決めて、そこから見た「3日間」を描いた方が有効だったように思えてなりません。ただ、それをするにしてもあの人物造詣の薄さでは、無理があるような気がするし...。

 あと、地の文と会話文との違いが無く、平坦な印象がありそれがさらに読み難さを倍増していました。これは個人的なモノかもしれませんが、地の文で「赤ちゃん」という文字が出てきた時には苦笑いたしました。割と硬質なルポ的な文章なのに、突然出てくる口語的な「赤ちゃん」に読み手のリズムはかなり狂わされました。

 かなり酷評しましたが、単に私の読解力が無いからかもしれません。密林やWeb上を見る限り概ね好評のようなので。

 さぁ口直しに『モダールな事象』か『桃尻語 枕草子』でも読もうっと(笑)

ドラマと原作 その1 『出雲の阿国』

 この3ヶ月は、1年振りに週5本ペースでドラマを見てました。内、原作があったのが『出雲の阿国』・『神はサイコロを振らない』・『功名が辻』の3本。
 『西遊記』も原作若しくは原典があるといえば言えるけれど、それからはすっかりかけ離れて日本オリジナルな話になってる気がします。それに今回のドラマは、旧『西遊記』がベースとなってる気がするので除きました。

 原作があるものについては、やはりきちんと原作を読まなければならない!!という(あまり大したことのない)信念の下に『阿国』と『神は〜』の2冊を読んでみました。 『功名が辻』については、過去、司馬遼太郎に嵌っていた時期に読んだ気がするのでまぁ良いかということで(笑)。

 以下 『出雲の阿国』のドラマと原作に関する感想です。多少毒吐いてる部分もあります(^^;;

 ドラマに関しては途中まで別項を設けて、色々悶えて(え?!)ますが全話を流し(飛ばし)見した感想含めつつ。

 この作品は、当然のことながら「原作」の方が素晴しかった。有吉佐和子さんの作品を拝読したのは、恥ずかしながらこの作品が最初でした。が、柔らかな雰囲気を纏いつつも、その内実は骨格がしっかり作られている「物語」に魅了されました。特に、「城造り」と「阿国」と「男」を絡ませながら、その時代に存在していたであろう「息吹」や「空気」を描き出されていたのには感嘆するしかありませんでした。

 阿国が「城(=権力)」という物を仰ぎ見ながらもどこかで嫌悪を抱いている「感情」と、野心を持つ「男」が抱く「城」に対する執念や熱情のあからさまな「差」により、阿国の「芸」が生まれた土壌を作っていくのがなんとも魅力的でなりませんでした。

 また「城」が象徴する、時代と権力の移り変わり。権力者がその力を誇示する為に造られる「城」。その住人たちは、物語中には顔を出すことはありませんがいつも阿国達の傍らに存在する。それらに惹かれ、より近づき出来うることなら掌中に手に入れたいと焦がれる思いを抱く男たち。それらに疑問を抱き、出来うることなら彼らの手から逃れたいと思う阿国。

 阿国に魅了され、阿国と共に大衆の文化を生み出した「男たち」ですら抱き続ける、権力への渇望や執着や憧憬。河原という自由な場に心惹かれながらも、「城」に恋心を抱く。そんな彼らが「人生の伴侶」として選ぶのは、決して彼らの思いが受け入れられぬであろう、「城」とその住人。
 対して、経験を通じて「城」や権力に懐疑を抱き、「踊る」事により苦悩や自身を昇華させる阿国。彼女の原始的ともいえる生命力の力強さと美しさには、登場人物ならずとも魅了されました。そして、阿国と城を対比することで、男たちの葛藤や悲哀が浮かびあがる様子には、美しささえ感じました。

 また当たり前のことながら、登場人物全てが生き生きと描かれ、彼らの「生」を一つとして疎かにせず、況や個々の魅力を余す事無く描いているのは流石としか言い様がありません。どの登場人物も印象深くありました。

 転じてドラマですが、あの長い原作を巧く消化していたとは思います。ただ如何せん、放映回数が少なかった。その所為で、城と阿国と男たちの関係がいまひとつきちんと描ききれて無かった様に感じられました。また、演じての力量に配慮してでしょうが(失礼極まりないな)、阿国の抗えない宿命として存在している「踏鞴の血」の描写が少なかったのは、勿体無いと思いました。だって、踏鞴を踏むリズムや、炎、そういったモノが阿国に無意識的に影響を与えているのに。

 演者に関しては、男衆は文句無く良かった。時代と阿国に翻弄される様子が悲しくも滑稽だと感じさせたのは、流石だと思います。
 女衆はなぁ….意外と良かったのがお菊でした。単に好みだってのもあるんですが、阿国に対する鬱屈した想いとか嫌らしさとかありつつも、どことなく幼い雰囲気があり、非常に見ていて楽しゅうございました(笑)
阿国に関しては、「弱かった」とだけ書かせてもらいます。