2005年1月28日金曜日

Mariah Carey 新譜発売日決定

 昨年末より05年春発売予定と言われていた、Mariahの新譜『The Emancipation of Mimi』。
 一昨日漸く、Universal Japanより発売日の発表があったようです(こまめにチェックしてないのが丸分かり^^;;)。今回も日本先行発売となるようで、発売日は4/6(日本以外は4/12)。
 ゲスト、プロデューサー等の詳細も、Mariah Carey公式サイト Universal Japan内に掲載されてました。

 そのゲスト参加者で気になったのが、ネリーです。彼がゲスト参加って、良いのか?!本当に?!有難う!!と妙なテンションで感動してしまいました(^^;;

 ところで、先行シングルとなった『It’s Like That』。iTunesストアでも発売されたようですが、日本では購入できないんですよね。なので、Hony B.Fly.com(MariahのFC サイト)で落としたファイルを、聞き込んでる毎日です(笑)

 <余談ですが、彼女のFCでダウンロードできる音楽ファイルが、実はWin.VerのMediaPlayarにしか対応してなくて、かなり辛いです(サイトじゃなくて、Mac版の開発を渋ってるMS社に問題ありとは思ってますが--;;)。 なので、聞くのは専ら会社のお昼休みな現状です。ホントどうにかして欲しい・・・ (違法コピーの防御ってのが分かるだけに強くは言えないんです。だからこそ、早くMS社がMac版を出してくれた良いだけの話だと思うんですがね/ブツブツ)>

 先行シングルを聞く限り、久しぶりに「これは、いけるかも?!」という予感がしました。というか、「むっちゃ好き〜」と大声で宣言したい程です(笑)。また、ジャケットが珍しく「写真」じゃない!!
今までの彼女のジャケットのイメージと大きく異なった感じで、私は非常に好きです。
 久しぶりにセンスが良いというか、持ってて恥ずかしくないというか(『LoverBoy』とか『Boy(I need you)』のジャケは流石に恥ずかしいものがあったり・・・/酷)。とても雰囲気のあるジャケットだと思います。

 で、一番気がかりだった彼女の「声」も、予想外に伸びやかで、力強く。曲自体もメロディラインが心地よく、軽やかな感じです。何度繰り返し聴いても飽きない心地よさと、明るさが感じられる曲ではないかと(所詮ファンの戯言です)。

 そして、歌詞なんですが。彼女にしては珍しく、久しぶりに非常に前向きなものでした。歌ってる彼女がまた軽やかに楽しそうなので、非常に元気がもらえる曲ではないかと思ったりです。

正直、ここ数年のアルバムとは趣の違ったアルバムになるんじゃないかと、期待してます。
(多少の不安もありますが^^;;)
また、前評判もかなり良いようで、期待は膨らむばかりです。

「書く」ということについて、ぐだぐだと。

 いつもの事ですが、寄り道周り道な文章です。

 最近になって漸く「文章を書く」事、もしくは「人に伝える」事の難しさに気づきました。今まで勢いだけで書いてたので、本当に今更何を言ってるんだって感じで恥しい限りです。この所、日常で考えや思いを「自分の」言葉で伝える事の難しさというか、繊細さに気づかされる事が多かったのも原因なんですが。(苦笑)

 また、Web上で多くの方の文章を目に触れる度に、新たな視点を教えられ、的確に突いてくる言葉やセンスの良い文章の数々に唸らされ、納得し、感心し、羨ましく思うことばかりです。
 それに比べ自分自身の拙さやってば一体...。もっと精進せねば!!と思う半面、己の拙さや無知、語彙の少なさ等々に凹み気味です(凹む前に努力しろ>自分)。

 ただ、こうやって何かしらの「文」を書くことで、私の中にある「形を成さない、もやもやしたもの」や「漠然と考えたり、思ったりしてること」がなんらかの「形を成し」(不恰好で不具合だらけですが)、そして「収まり場所が見つけられ、整理される」のは事実。それによって得られる「気持ちよさ」を感じてるのも事実。
 だからこそ、「書くこと」が好きだし、好きだからこそ「形を整えたい」とか「きちんと伝えたい」と切望する。なのに、理想と現実との距離が遠い。遠いくせに手を伸ばしたら届くような気がするから「もどかしく」感じて仕方が無い(これって、もしかして・・・砂漠で蜃気楼のオアシスを追いかけてる感じなんだろうか??)。

 けど、その「気持ちよさ」や「もどかしさ」といったモノが、次の何処かへ進む原動力となってる気がしてます(そうは言っても同じ場所でうろうろしてるんですが/^^;;)。

 また、こんな風に自己満足的な文章なので、読んでくださる方には失礼だな、と常日頃思いつつも足を運んでくださり、読んでくださる方には心から「有難うございます」と日々感謝しております。
 そして、飽き性の私がここまでゆっくりのんびりと続けられてるのは、足を運んでくださる方のみならず、頻回させていただいてる数多のBlogやサイトのお陰だと思ってます。皆様本当に有難うございます。

これからも、こんな感じで何の脈絡も無く、だたグタグタと綴って(垂れ流して!?)いくと思いますが、宜しくお願いいたします。

2005年1月24日月曜日

『百年の誤読』

 昨年夏以来、読後感想を10冊分近く書いては捨てたんですが、漸く一つ書けました。
 
 記念すべき第一冊目は、
 『百年の誤読』岡野宏文・豊崎由美 共著 ISBN: 483560962X
 1990-1999年までの100年間(10冊/10年)+おまけとして2000-2004年の4年間(10冊)を加えた「ベストセラー110冊」の書評本、です。

 とにかく、著者二人の「突っ込み」技が冴え渡ってます(笑)。「書評」というよりも、突っ込み本と表現したいくらい素晴らしい突っ込みの数々に、大笑いさせてもらいました。特に、1804-1960年までの突っ込みは素晴らしく楽しく、たまらず噴出してしまいます(外出する際に読んでてとても困りました)。

 正直、豊崎氏の拘りというのか、突っ込み方(あれは『芸』かとも思う)には「好き嫌い」があるでしょうが(私はとても「好き」です)、その「誤読」や「突っ込み」は十分作品に対する『愛』や思い入れがあるからこそ出来る技。
 だから、彼らが『突っ込んだ』作品は読んでみたいと思わせられるんじゃないかと思うのです。確かに好きな作品(例:風と共に去りぬ)への「きつい」言及には、多少は凹みました。ただ、ちゃんと読んだ上での批評なので「こういう読み方も有りだよな」と思うくらいで、怒りは感じませんでした(確かにキャラクター類型的だし、スカーレットは成長しない大馬鹿だし。^^;;それでも好きなんですよ)。

 また、『名作』や『古典』といわれるものに対してこれほど「敷居を低くした」書評ってのは、ある意味貴重かと思われます。特に、過去の作品に対し『今』読んでどうなのか?という視点なのが、非常に分かりやすく、古典達に手を伸ばしやすくなってる気がします。
 更に、引用されてる「文章」の流麗で美しい事ったら!!「日本語ってこんなに美しいのか!」と目から鱗でした。解釈とか時代背景とかを念頭におかなきゃ、という枷のある肩肘張った読み方ではなく、ただ美しい文章と言葉に身(目と頭)を任せるだけで良いいよ、と枷を外された様な気がしました。

 そんな中、今回一番読んでみたくなった「古典」は、漱石の『それから』(豊崎氏の「代助フェチ」ぶりに触発されてるのは言うまでもなく/笑)。あとは、泉鏡花・芥川龍之介・尾崎紅葉(『金色夜叉』)あたりです。昭和に入ると、やっぱり三島由紀夫、村上春樹辺りでした(食わず嫌いだった作家達ばかりなのが、なんとも^^;;)。

 最近の(特に90年以降の)ベストセラー評に関して、「結局『昔は良かった』的な意見やん」と言われる向きがあるようですが。私はそう感じませんでした。私自身ここ10年近く「ベストセラー」本から遠ざかってるのもありますが。
 『窓際のトットちゃん』とか『気配りのすすめ』(懐かしい〜/笑)等、私が実際に触れた80-90年代のベストセラーに関しては、彼らの突っ込みに頷く事が多かったんです。特に、『窓際〜』に関しての「ともえ学園」に対する「誤読」は私のそれと近いものがありました。彼らが奇しくも指摘してるように、当時の学校生活に馴染めない私にとって「トモエ学園(=小林校長の教育指針)」は、憧れて、望んで止まなかったたけれど、決して手に入らない世界(=学校社会・教育指針)だったんです。

 また、『Deep Love』や『失楽園』『ハリーポッター』辺りの「誤読」は個人的には納得できるものです。
正直、ファンの方には申し訳ないんですが『ハリーポッター』は私も「何で?これが?」と思ってるので。
第1作目の『賢者の石』を読んだ時に「あちこちの継ぎ接ぎやな」との印象を強く抱いてしまいましたし(トロルやケルベロスの扱い方とか、魔法の杖とか、寄宿舎生活の様子とかとか。しかも新たな世界の構築も、目新しさもあまり感じられなかったので)。しかし、彼らが『ハリポタ』の項の最後に触れてる、『指輪物語』の最新現代語訳ってのは難しいと思います(^^;;

しかし、一冊目がこの本ってのは・・・どうにもこうにも問題ありかとも思います(^^;;
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05/1/26追記
「窓際のトットちゃん」に関する一文は、私の完全な誤読でした。両氏は『学校になじまない子を持つ親や教師が、「ともえ学園」の様な教育を目指そうとしても、現在の教育現場との乖離を感じるだけ』ということを指摘していました。今手元に元本がないのでまた追記訂正したいと思います。

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05/01/26追記2(訂正)
両氏が指摘してる内容は、次の様なものでした。
・落ちこぼれであったトットちゃんが綴る「ともえ学園」での生活(様子)が、落ちこぼれた子を持つ親や教師に希望を与えるものであった。
・しかし、それは「誤読」であって実際は、子どもの自主性を大事にする教育は余りにも教師と学校に責任と負担がかかる。
・それ故、落ちこぼれた子を持つ親や教師がこの本を読んだ場合、トモエ学園の教育方針が存在できない現状に絶望するんじゃないか。
(『百年の誤読』P289-290参照)
という事です。
彼らの指摘は、あくまでも親や教師からの視点であり、落ちこぼれた子(若しくは学校生活に馴染めない子)からのものではありませんでした。
なので、上記で書いた一文は完全に私の「誤読」でした。
(かといって、彼らの「誤読」が決して間違ってるとは思いません。だた、「落ちこぼれ」という語句に多少の違和感を感じはしますが・・・)
ただ、今後の反省のために修正(削除)はせずそのままおいておきます。

2005年1月20日木曜日

蜷川版『ロミオとジュリエット』 

 本当に観れて良かった。「蜷川幸雄演出のシェークスピアが観たい」という、中学の頃のささやかな夢が叶っただけで嬉しくてなりませんでした。

 古今東西あらゆる方が演出してきた『ロミオとジュリエット』。私自身も映画で何度と無く観てきたこのお芝居。今回ほど初々しさ、儚さ、愛らさ、疾走感を感じた事はありませんでした。
 そして、物語があまりにもシンプルな構造だったことに驚きを感じました。あくまでも「たった5日間の恋物語」として見せてもらえた事が驚きでもあり、とても新鮮でした。細かな解釈も説明も何も無く、ロミオとジュリエットの「幸福な恋」と「運命の悲劇」だけ抽出した、そんな舞台だったと思います。

 物語がシンプルになった故に、際立つ『恋の輝き』に象徴される『生の輝き』と『死』への絶望感や喪失感を強く感じもしました。言葉(台詞)は音なんだと、昨年RSCの『オセロー』を観た時と同じ感想を抱いたくらい、台詞が発せられるのが楽しいんです。 長い台詞だったり、古めかしい言い回しなのに、台詞の音とリズムが美しく、その為すっと耳に入ってちゃんと意味をなす快感ったら、病み付きになりそうです(笑)。しかも、軽やかなのにどこか官能的ですらあるんですよね〜。
 また、韻に拘るお国柄(言語)だけあって、徹底してリズミカルで聞いてて心地良いほど(翻訳される方も大変だろうけれど、きっと楽しかろうと思わせられる)。
 やっぱり、戯曲は読むのもそれなりに楽しいけれど、やっぱり「人の声」として発せられてこそのものだと痛感しました(言葉が色彩を放つというのか)。

 そして、蜷川演出ということで、どんな趣向がこらしてあるんだろうか、と思ってたんです。が、舞台そのものは、白黒の写真で飾られた3階建のセットのみと、とてもシンプルなものでした。
 そんな舞台で、あのバルコニーの場面や墓場の場面をどう見せるんだろうか?と思うほどでした。そんな事は当然のことながら杞憂に終わったんですが(笑)。
 バルコニーの場面では、写真群が月の光に浮かび上がる石壁に見え、最後の墓場の場面では、まるで古びた石壁のように見えて、重さと暗さをあそこまで醸し出すことになるとは、舞台って本当に不思議です。

 演出で言えば、役者さんが舞台狭しと走るわ登るわ(笑)。しかも、劇場内の通路(最後の席から舞台までの)まで使って駆け抜けるんですよ!!いや〜凄いです。流石、蜷川演出。
 ちょっと横道に逸れますが。今回の席は後ろから2列目左側通路寄りだったんです。今ひとつかな…と思ってたんですが、トンでもなく。
 ほぼ真横を藤原ロミオや鈴木ジュリエット等が駆け抜けてくれました(嬉)。衣が風を切る音なんがリアルに聞こえ、益々疾走感が高まる感じがしました(それにしても藤原ロミオと鈴木ジュリエットが傍に居たと思うとそれだけで満足です/笑)。

 そして、前口上があったこと。これによって、誰に感情移入する事もなく「第3者」として「お芝居」を観ることが出来た気がします。あくまでも「お芝居です」と言わしめることで、違った空間に連れていかれる間が出来た気もしますし。そういった意味では、大変興味深かったりです。

 今回一番感じた事は、少女が見せる「女性性」の多様さ、そして成長でした。
 恋も愛も知らない「女の子」、
 運命と相手と出会い、これから過ごすであろう「豊かな時」を夢見る「少女」、
 殺された近親者の死の悲しみと「夫」への愛の狭間で嘆き悲しむ「少女」、
 愛の為に家族だけでなく自らの「生活」の基盤をも投げ捨る強さと、計画のためには自らをも偽るしたたかさを見せる「女性」。
 そして、最後に自らの死を選んだ「少女」
 と成長する少女と、「女性(もしかすると少女)」がもつあらゆる面を見せてもらった気がします。恋によって成長し、輝きを増す。そして、死と絶望を前にしよりしなやかな感性と持つ。最後に絶望の中で死を選ぶ際には、純粋さとある種の力強さを見せる。そんなジュリエット像でした。

 対するロミオですが。
 少女が成長を見せるのに対し、ロミオは恋をする事によって「少年」へと変わる。
 悩める青年が少女と出会い「恋」をし少年に戻る。
 そして「愛」のために家の確執をも取り壊そうとし、家と友情の狭間で己の責を果たそうと尽くす。が、激情に負け己が追放された時点で、悩める青年から漸く脱皮する。
 しかし結局、己の中の幼さによって命を経つ。
 激しく、大人であっても幼く、恋に翻弄されながらも、しっかり何かを見据えてる。そんな魅力的なロミオでした。

 途中、年下であるはずのジュリエットが「年上の女性」に思えることが度々ありました。特に、バルコニーでジュリエットがロミオを小鳥に例える場面。
 「愛しすぎて殺してしまうかも」の台詞に何ともいえない色気を感じ、それを幸せそうに聞いているロミオの幼い様ったら。まるで、母子のような雰囲気すらありました。

 しかし、今回はじめて、ロミジュリって結局「ジュリエット」の物語だと思いました。つうか、ジュリエットが魅力的じゃなければ成立しない「舞台」なんだなぁと。

 ただ、う〜ん、ディボルト、マキューシオ、パリスとかの描き方が弱かったかな?! いう気がしなくもありません。
 特にティボルト。
あまりにも薄くて。正直、今回彼らの死が、ジュリエットにあれほどの衝撃を与えるとは思えなかったのは、ちと辛かったです(映画とか訳本で脳内補完できるんですが)。
 マキューシオは、ロミオとの絡みも結構あって分かりやすくはなってたんですが、如何せん、柄の悪い兄ちゃんにしか見えなかったのがちょっと悲しかった(実はマキューシオが結構好きなんで/苦笑)。

 肝心の藤原ロミオ、鈴木ジュリエット共に何の文句もありません(笑)。このロミオとジュリエットは『愛おしい』と思うほど愛らしく、軽やかで儚い存在でした。二人が一瞬にして恋に落ちてから、墓場でジュリエットが死を選ぶまでの時間の濃密さと儚さと美しさったら無いんです。

以下気に入った場面毎の雑感です。

 ○ロミオ登場面
 ロザリンドの恋に悩むロミオ。なんですが、こうマキューシオ達じゃなくても「いい加減にしろよっ」と言いたくなるほどの「重さ」っぷり(笑)。「キューピットの矢が重くて、キューピットの羽位では飛べない。」という台詞がとても現実感がありました。とは言いつつも、藤原ロミオの輝かんばかりの空気には、ただただ圧倒されました。

○ジュリエット登場場面
 可愛いっ!!の一言で終わらせてください(笑)。この瞬間に私は鈴木ジュリエットの虜となりました。

○二人が出会った場面
 互いが引き寄せられてなんていう手続きもなく、本当に『瞬間に恋に落ちた』ってのが空気で分かるんですよね。
 それまで「年上の女性への恋」で思い悩んでいたロミオの空気が、ジュリエットを見た瞬間に「ぱぁぁ」と晴れ渡るというか。こう年齢以上に様々な重荷を抱えて悩めるロミオが、一気に軽やかに年相応なるというのか。

 その後の「聖職者と巡礼」のやり取りは(ロミジュリでも好きな場面です)、なんか初々しいやら、ぎこちないやら、愛らしいやら、そんな雰囲気が伝わってきて、何ともいえない幸福感に包まれました(^^)

○バルコニーの場面
 かの有名な「バルコニー」の場面前ですが、キャピレット家の森に隠れて出てこないロミオに対し「愛ある悪態」をついていたマキューシオ達が去った後、ロミオが靴を投げつける場面があったんです。その時の軽やかさったら、本当にロミオか??と思うほど「お子様」で、思わず笑みを誘われました。

 で、外しちゃならない「バルコニー」(笑)
 いや〜鈴木ジュリエットの告白も、あの瞬間の恋の始まりを見たら至極納得できるものでした。照れも何も感じず、高まる恋心を感情の赴くままに言葉にする様ってのが、これほど「可愛らしい」とは!!
 そして、ジュリエットの純真で優しく情熱的な独白を聞いて、悶える(笑)藤原ロミオがこれまた「幼く」て可愛らしいとしか表現しようがございませんです(笑)。この藤原ロミオはお持ち帰りしたくなるほどの可愛らしさです。行かれる方は是非っお楽しみに(何か違う)。

 で、今まで「キューピットの矢が重くて」とのたまっていたロミオ君ですが、新しく刺さった矢はすっかり軽いようで、その上「恋の羽」まで手に入れたようで良かった良かった。
 と言いたくなるほどの浮かれっぷりには、もう「可愛い」としか言いようがありませんでした(笑)。しかも、息せき切って息も絶え絶えになってる様子が、ロミオの幼さと感情の高ぶりと喜びを更に感じさせてたような気がします。(「はぁっ」と荒い息遣いが聞こえるんですよ。「色っぽ過ぎ、藤原君。杏ちゃんより色気あるって?!どゆことよ??!」と思う程/^^;;)

 二人がバルコニーで互いの愛情を確かめ合う場面。
 これは、鈴木ジュリエットが垣間見せる「色気」にうっとりしておりました(笑)。で、すっかりジュリエットの掌で転がされるロミオなのが、何ともいえず可笑しくて可愛らしくて。この二人、ガラスケースに入れて永久保存して良いですか?! と聞きたくなるほどです(誰に聞けば良いんだろう??)。

○ロレンス神父の庵
 ロレンス神父に懐く、抱きつく、甘える藤原ロミオがぁっっ(悶絶)。ロレンス神父がロミオのことを可愛がってるのが、とってもよく分かる場面でした(笑)。親子というより爺と孫な感じで、聡明で甘え上手な出来の良い孫を見守る爺様って感じがして、とにかく楽しい場面でした。それより何より、恋に浮かれて神父の話を聞いちゃいないロミオのお馬鹿加減が本当に素晴らしいです。

○乳母とロミオ→乳母とジュリエット
 ロミオの聡明さと少年さが一番出てた場面かと。
 軽やかに「言葉」の応酬をする藤原ロミオ達。言葉とか演技は結構「猥雑」なんですが、それでも「下品」にならないのは流石だと思った場面でもありました。で、乳母の頬に喜びのあまりキスをするロミオ。乳母の気持ちがかなり分かりました(笑)

 乳母に甘えたおすジュリエットの幼さと、まるで太陽のような空気にただ「可愛い」としか言葉がありませんでした。こんな可愛いお嬢様だったらあの乳母じゃなくても自慢するよ、とここでも乳母の気持ちが良く分かりました(笑)

○ロレンス神父の庵
 まったく神父の話を聞かず、ただただ手を取り合って見つめあう二人の様子、幸福感に見惚れました。
(流石に神父がお気の毒になりました/^^;;)

○ティボルトの死、ロミオの追放を嘆き悲しむジュリエット
 初夜を迎える不安や喜びを語る様子が愛おしく、また官能的な言葉の音に酔いしれました(実はここの台詞も好きなんです。それをあれだけ愛おしく、慈しみ、喜びを湛えて語られたらもう)。
 其処から一転して、『死』と『追放』を知り慟哭する様が切なくて、痛々しくてなりませんでした。が、そんな中でも『希望』を捨てないジュリエットの強さにものすごく惹かれました。

○初夜後の別れ
 ここの「あれはナイチンゲール。雲雀ではない〜」以降のやり取りが一番好きなんですよ(訳本等でもやっぱりここの台詞たちは素晴らしく美しいと思います)。別れを惜しむ二人の様子が、本当に切なくて寂しくて愛おしさに溢れてて。堪らないものがありまして、初めてロミジュリで泣きました。素晴らしく美しい場面です。

 あとはこの流れで一気に悲劇に雪崩込んでいくので、感想もあったもんじゃないです(苦笑)

 で、今回一番意外だったのが、実はジュリエットの母親でした(乳母はそのまんまで嬉しかったよ〜)。彼女は戯曲を読んでも、映画(特にディカプリオ版)でもあまり母性が感じられなかった人物でした。
が、今回の彼女はジュリエットに対して愛情を注いでる感じが強く出ていて、本当に意外でした。彼女の母性が見えたため、ジュリエットの「愛らしさ」や「悲劇」が現実的になった感すらあります(家族からも周囲からも慈しみ愛された幸せな娘、な感じが強調されたかと)。

 特筆すべきはジュリエット。
 たった3時間(物語では5日間)に女の子から少女、そして女性へ絶え間なく変化する時間の濃さと美しさったら!!正直、鈴木杏ちゃんにはあまり期待せずに行きました。
 が、もう舞台に出たときから「可愛い」んですよ。等身大のお人形を抱えて、フワフワのドレスを纏って小走りに登場してくる場面で、心臓射抜かれました(笑)。しかも、ただ可愛いだけじゃなくて見事な成長(=変化)を見せてくれる。悲しみにくれて泣き叫んでるのにも関わらず、ジュリエットが持つであろう「愛らしさ」は決して無くならない。
 最後まで聡明で、強くしなやかで可愛らしく美しいジュリエットでした。
 あぁ。彼女のオフィーリアを見逃したことが悔しい・・・・

 藤原ロミオは言うまでもなく、素晴らしかった。
 あの幼さに彼の「素(組!関係のTV番組で見せてた)」、「試衛館時代〜浪士組の沖田総司」を思い起こされました。素晴らしい役者だとしみじみ。
そして、彼は舞台でこそ「活きる」役者なんだと改めて認識しました。彼の舞台は絶対次も行こう!!と堅く心に誓ったのでした(笑)。「ハムレット」DVD化してくんないかな、心底観たくてなりません。

2005年1月17日月曜日

最近ふと思い出す

 放映直後はそんなに引っかからなかった場面な筈なのに、『組!』のある場面がふと思い出されることがあります。

 『東へ』で土方が新撰組の記録を焼いてる場面。

 「あの書付があったら〜っ」とか「何で焼くの?!史料なのに〜」とかいう忸怩たる思いではないんです(そういう思いもあるのはあるんですが)。

 ただなんとなく、「あぁ。こうやって彼らにとっての過去を消して、彼らは歴史の隙間に埋もれてくんだ。で、時代が変わって、(事実とは違うかもしれないけれども)作家がその歴史の隙間を埋めてくんだ」
とか、書付を焼いたことによって、失った「過去」の重さと事実とか何もかもを、あの時土方は全身で引き受けたんだろうな。
  と非常に当たり前な思い(多少感傷も入ってる気がします)で、振り返ってるような気がしてます。そして、過去なのに止まることが無い時を相手にしてた作家の、静かな闘志を今になって感じてみたりもします。
 とても静かに穏やかに振り返ってしまう、そんな場面のひとつになろうとは。何なんだろう、もの凄く不思議です。

 しかし、終わって1ヶ月経とうとしてるのに、義経始まって2週目なのに(苦笑)。何時まで翻弄させられるんだろうか?
まったく、楽しくて仕方ないですよ(笑)

ハードル高すぎ

 昨夜『組!』の池田屋以来、相方が大河ドラマを見てました(苦笑)が、やっぱりリタイアしました(--;;。

 どうやら、彼の「大河」最高峰である『女太閤記』や『草燃ゆる』『黄金の日々』辺りと比較してるらしく、感想はけっちょんけっちょんでした。その辺りと比較対称したら、そりゃ最近の大河は見れないとは思いますが、正直ハードル高すぎだと思います。

 しかし、出てくる画(オープンセットの町並み)や煌びやかな衣装を見る度に、「去年と違って、金かかってるな〜。NHKの気合が違うね」と嫌らしい事を散々言うのはどうよ(殆ど見てない人にも分かる違いってさ、どうよNHK。と小声で呟く自分が一番どうかとは思いますが)。

 で、相方と案の定「昔の大河と何が違うのか」という話になり(話好きの夫婦です)、やっぱり、最近の大河は「視点が定まってない」とか、「明確な『悪役』なり『敵役』が居なくなった」、「非情な判断を『苦悩しつつ涙して』する事が多くなった」、「女性視点を中途半端に入れすぎ」(『女太閤記』は女性から見た『太閤記』という定点だったので良いそうです--;;)、「女性の扱いが現代的過ぎる」、とかもうそれはそれは身も蓋もない、楽しいものでした(苦笑)。

 確かに『独眼流政宗』辺りから「ホームドラマ」化してきたとは言われてますし(確か『独眼流』放映当時、そういった批判がかなりあった記憶が)、軽く分かりやすくなってるんだろうな〜とは思います。

 しかし、今回の大河で「軽い」って言われると、『組!』は本当に「大河にあるまじき軽さ」だったんだろうな、と改めて感じた次第です。
 それに嫁がズブズブ嵌ってくのを黙認してたのは、あくまでも「三谷幸喜・作」だからのような(苦笑)
(お互いの妥協点が其処しか無かっただけかも)

STING 大阪公演

 雨の土曜に行ってきました、『STING 大阪公演』!
 大阪が日本公演皮切りだったのは、つい先ほど知りました(笑)。どうりでSTING、元気だった筈だわ(^^;;
(昨年のStevieといい、皮切りとか最終とかだと単純に嬉しかったりです)。

以下雑感

 座席位置は、スタンド席前列、舞台に向かって若干左寄りでした。が、アイドル系の様に顔やダンスで楽しむタイプのLIVEではないので、十分満足な場所でした。

 ちなみに、このLIVEを心から楽しんでたのは私より相方でございました(^^;;。なにせ「STINGも良いけれど、やっぱりPolice時代が最高や」と言う程昔から聞き込んでる方なので。
 流石、演奏する曲の殆ど、前奏で曲名からフレーズまでお分かりになられてました(私もMariahなら分かるんですがね、ってそんな所で対抗してみせてどうする、私)。

 余談ですが最近、LIVEの度に観察するのは来てる人(年齢や男女比や服装)だったりします。やっぱり、それぞれのLIVEで客層に特徴があるのがなんとなく楽しくて。今まで行った中で、男性が多くて平均年齢高かったのは、やはり Eric Clapton、Stevie Wonderだったかと思います(しかも仕事帰りのサラリーマン比率も高かった^^;;)。
 その反対が Back Street Boys、Blueでした(『女の子』があれほど多いLIVEはアイドルならではだと実感した程)。

 今回は、年齢層は30-40代が多く、男女比は半々かな?って感じでした。ただ、掛け声(っていうのかな?)や歓声は圧倒的に男性の声が多かった気がしました(低い声で「STING!!」って叫ばれると、やはり迫力ありますね)。

 Live自体は、やはり「大御所」だけあって、約2時間弱まったく飽きささず楽しませてくれました。最新アルバムからは当然のことながら、Police時代の曲や古い曲も取り混ぜた構成だったようです(すみません、何せ数曲しか知ってる曲がなかったんで。ほぼ相方の説明だけで書いてます/^^;;)

 で、Stevie Wonderの時も思った事なんですが、良い曲、聞かせる曲が多いってやっぱり「強いな」って。正直、私はStingに関しては、好きな曲はあるけれどアルバムは聞き込んで無く、Policeなんて「名前は何となく知ってるけど、曲はまったく知らない」。そんな「素人」が「知らない曲」を楽しんで、聞くことができる。そんな「強い」力を彼らは持ってるんだと感じました。
 その「強さ」は、曲の力だったり魅力だと思うんですが。やはり、歌う人が曲に対して見せる「信頼感」とか「自信」とか、年齢に応じて変化する柔軟性とか、なにより彼らの声の「威力」だと思ったりします。
あぁ伊達に長年音楽の世界でTOP走ってないわ、と実感させられました。

 そして、STING。ギター抱えて飛び上がる姿を見た時にゃ「若っ。元気やなぁ」と思っちまいました(^^;;。そして声の調子も良かったようで、非常に張りと艶のある声でうっとりでした(相方も非常に満足してたし)。

 ただ惜しむらくは、ミキシング。やたらギターとドラムの音が大きくて、正直耳が疲れると感じました(時折STINGの声が聞こえなくなく部分もあったし)。それ以外は本当に大満足なLIVEでした。

 で、個人的には『Shap Of My Heart』と『Englishman In New York』が聞けただけで大満足です(不覚にもShape Of My Heartでは涙ぐみました)。

 最後に、某巨大掲示板に載ってた1/15のSET LISTです。

Send Your Love
Message in a Bottle
Hounds of Winter
Dead Man's Rope
Brand New Day
Shape of My Heart
Englishman in New York
Fragile
Fields of Gold
Sacred Love
Every Little Thing She Does Is Magic
Whenever I Say Your Name
Never Coming Home
Roxanne
Encore 1:
Desert Rose
If I Ever Lose My Faith In You
Every Breath You Take
Encore 2:
A Thousand Years

2005年1月10日月曜日

『義経』 ちょっと見感想

 OP前とOP後5分程しか観れませんでしたが、その感想です。

 OP前の「一の谷合戦」場面。
 非常に美しいと言うか、雄大というか華麗というか。絵巻物が紐解かれた感じがしたというか、「本格大河が始まった」という期待を感じさせる場面だったと思います。エキストラの多さとか、空間の広さとか、カメラワークとかやっぱり「大河はこうでなくっちゃ」と思わせる「力」もあった様に感じました。

 意外と違和感を感じなかった、滝沢君の義経とその従者達。やっぱり「良いな〜」と思った、白石加代子さんのナレーション。瞬間映った、阿部寛の武者姿に心ときめいたのは内緒です(笑)。

OP
 これも「正統派大河」的な音楽でしたね。タイトルバックも格調高い雰囲気で(けど、一番好きなOPは『独眼竜政宗』だと改めて思たってのは、どうよ私)。居並ぶ役者陣も「おぉ!!」と思う方が多く、また大河らしくあらゆる年代、ジャンルから集まったな〜と。

OP後
 合戦場面は流石「大河」だと唸らされました。しっかり作り込んだ野外(屋内)セットも流石だし、エキストラの数も流石だと。

 そして、「時代掛かった」台詞の数々。久し振りに触れると、「やっぱ良いよな、合うよね、こういう衣装にこういう台詞回しって」と妙に納得させられてました(笑)。また、子役の方達が非常に愛らしく、「いや〜これも大河の楽しみの一つだよ〜」と画面に向かって呟く始末。
 女性陣の市女笠とか普段着的な衣装も華麗で美しく、良いですよね、ホント。

 とは言いつつ、やはり前作と比較してしまう心の狭い私も居て(苦笑)

 で、思い起こせば昨年の第1話は、始まる前は勿論の事、見終わった後も色んな不安と期待と心配と安堵なんかが混じった感じだったような(特に局長と脚本/笑)。
 それが今回は一切無く(笑)、本当に安心して見られた第1話だったのが最大の違いだと思います(それはどうかと)。

真面目な話。
 ナレーションが入ることで、こうまで場面が判り易く、物語をより俯瞰的に見ることができるんだ、ということを痛感しました。時や場面が変わる事に、違和感や置いてきぼり感を与えない為の最良の技なんだとも。そして、観る方にあくまでも「俯瞰」な視点が与えられてるからこそ、物語に安定感を感じ、追う目線が惑わないんだとも思い知らされました。
 ナレーションが一切無い前作で、散々同じ目線に立たされて、登場人物の言葉や表情に「惑わされて」た一人としては、どこか物足りなさを感じた部分でした(勿論、前作が「大河としては『異例』」な作品だとは判った上ですが)。

 しかし、ナレーションはやっぱりあった方が「視聴者」としては、助かるんですよね。時代背景もきっちり説明してくれるし、主人公の目だけでは見えない(窺い知れない)場所や動きも見せてくれる。だから、安心して腰を落ち着けて観られるんだと。

 また、ロケセットや当然ながら衣装の豪華さとかを見るにつけ、「この予算があれば」と言っても仕様の無い事を思う始末(苦笑)でした。

 今作は確かに「楽しんで」見られそうな予感はしてます。が、前作ほど夢中になるかと問われれば、正直「どうだろう」と答えざるを得ません。
 けど「良い作品」になって欲しいな〜とは思ってます。

2005年1月6日木曜日

『24』 第1シーズン

 年越しネタ第2弾です。

 DVD発売当初、「BOX購入する、しない」で我家で散々物議を醸しだしたこのドラマ。年末年始にかけて地元局で5夜連続放映してたので、漸く全話観ることができました(^^;;

 実は、00:00〜02:59(3話)分のDVDは購入したんですよ。ですが、私が全く嵌れなくてBOX版(全話)購入には躊躇い続けてました。反対にしっかり(でもないですが)嵌った相方が、執拗に「購入」を求めるも、「そんなに欲しいんやったお小遣いで買えば良いやん」と一切取り合わない状況が続いてました(酷い嫁ですな〜/笑)。
 なのに、私はガンガン欲しいDVD(一例:『王様のレストラン DVD-BOX』)を買い漁ってる姿に、相方が疑問を呈するとう状態があったりもしました(一応これはお小遣いで買ってたんで、相方には文句言わせませんでした/^^;;)。

 そんな感じですっかりほとぼりが冷めたと思われた昨年末、ふとTVを付けたら放映してるじゃないですか、『24』を。そんな理由で、思いかけず全話観れた『24』(途中1-2話飛んでたりしますが) 。相方がすっきりたようで、それが一番幸いでした(笑)。

 相変わらず、全く嵌れなかった私は色んな部分で「ながら見」でした。そんなこんなの「24」ネタバレ有りな感想です(今更ネタバレってもな..)。

○相方が何処ぞで聞き及んできた『24』第1シーズンの法則。
「登場人物の使ってるPCがMacなら『味方』、Win機(DELL社製)なら『敵』」。
 これを聞いた時は、「そんな判り易い事する筈ないやん」と少々疑ってましたが、その通りでした(笑)。この点にだけ注視してれば、どんでん返しも何もなく「あぁこの人。裏切り者ね♪」若しくは「この人は、ミスリードする人ね♪」と心安く鑑賞できる法則です(それは、ホントにどうかと思う)。
 例)大どんでん返しであろうと思われるニーナ。彼女は最後の場面以外DELL使用者。メイスン氏は一見かなり怪しくて「内通者か?!」と思わせられますが、デスクトップがPowerMacなので味方であることが判ります(いや、PCが写る度に「あっ今のG4や。この人は味方やで」と機種名と共に説明する相方が一番どうかと思うよ)。

○拉致られ続ける家族
 事件の発端となった娘キムの誘拐は、納得します。が、それ以降のあの母娘の拉致回数は如何なものか?!と。

○ごめんなさい、脚本と相性が悪かったです(--;;
 米連続TVドラマの手法なのは判ってるんですが、放映してる最中に「脚本」を作ることの悪い部分が出たかな?!と思わなくも無いです。この手法、1話完結モノだと比較的「巧いなぁ」と唸らされる事もあるんですが、如何せん時間も事件も何もかもが連続してる作品だと、伏線も何もあったもんじゃなくなるというのが、勿体無いというか、この手法の限界を感じたと言おうか。
(輸入された作品の殆んどは、『新スタートレック』とか『SEX&THE CITY』とか1話完結であっても、割合全体として巧く時系列があってるとは思います。なので一概に「手法が悪い」とは言い切れないですが、この作品には合わなかったと思ったり)。

 特に、事件の発生の仕方がどうにもこうにも「行き当たりばったり」としか思えないのは辛かったです。そのあおりを食ったのが母娘の行動じゃ無いかと感じました。だって、かなり無謀・無計画な行動取っては、拉致られた挙句母の記憶喪失って(苦笑)。なんか、無理矢理事件作って強引に発展させてるという印象が否めませんでした。

 あと、ああいった国家機密機関で自前の携帯電話の使用は良いのか?!
 バウアー氏の行動は非難されないのか?!
 セキュリティは一体どうなってるの?!
 敵、弱っ。っていうか計画性も何にも無いのか!?
 何故、この人が死んであの人が死なないのか軸が見えないぞ。
とか、言い出したら切がないのでこの辺で。

○好きな部分
 大統領候補周辺に関して言えば、言動等は整合性取れてた様に思います。特に、シェリーは素晴らしい!!
彼女の考え方には共感を覚えるし、彼女の行動は確かに疑問に感じる(人として)部分もありますが、それでもあの野心に付随する行動力と思考力、計画性を見たら納得させられます。
 大統領自身も筋が通ってた行動だったと思うので、二人で漸く「大統領」として成立する様な気がするので、ホントあの夫婦が別れたのは惜しいっ。

○総括
 すみません。本当に相性が悪かった作品でした。後半、相方も突っ込みつつ見るという姿勢に変わった程、話は杜撰というか「ツッコミどころ多し」な作品だったと思います。つくづく勢いに任せてDVD買わんで良かった...と思いました。

 この作品最大の謎は、なんであんなに話題になったのかでした(笑)。と文句言いつつも、第2シーズンも連夜放映してたらきっと見るとは思います(^^;;

『Angels In America』 第3話〜第6話(最終話)

 年越しになりましたが、感想が中途半端に放置していたので、書いてしまおうかと思います。

 途中、2−3「これは一体どうした事か??(汗)」という映像があったものの、最後まで目が離せず、魅了されたドラマでした。TVだからこそ表現できた映像の力もあるんでしょうが、やはり脚本というか作品そのもの力、そして役者の演じる力を強く感じたドラマでもありました。

 HIV患者と同性愛者、そしてその家族と宗教、当時の政治背景と様々な「問題」を内包したドラマなのに、何一つとしておざなりにされず個々の問題と真摯に向き合っている事が素晴らしいと感じました。確かに劇中では決してどれも「すっきりさわやか」に解決しませんが、それでも「個」レベルでは何かしらの「答え」(これも決して割り切ったものでない。あくまでも次の一歩を歩みだすための「力」となるモノ)が提示される。ある意味物凄く「現実」をそのまま描写したようなドラマではないかと思います。
 その視線は「柔らかく」「優しい」ものである事は間違いと思います。確かに、厳しい現実や選択を突きつけられては居ますが、それは決して厳しいだけのものじゃない。人が元来持ってる「何」かを信じ、人(個人)の強さ、生きる事そのものの美しさと強さを信じてるからこそ描けるんだと、そんな風に思いました。

 また、劇中で自身の生き方や家族、社会への「責任」も「義務」をも果たせなかった人物に対し、許しが与えられなかったのは(彼一人、未来が描かれ無かった)、欧米社会が根本的に持つ「厳しさ」の表れじゃないかと感じました。
 あくまでも個が果たす「役割」なり「責任」が最初にある。そして、それらは神との契約の最も基本的な部分である。そして、それらそ評価し、裁きを下すのは最終的に「神」である。だからこそ、社会や家族、神が与えたもうた「己の生」に対して責任を果たす義務がある。そんな、考え方なんだろうな、とうっすらと感じた場面でした(日本の「因果応報」とは異なった概念なのでは無いのかと)。

 更に、初盤から中盤にかけての「重苦しさ」や「荒々しさ」「不安」が、最後の場面で「清々しさ」に変わり、未来への穏やかな足取りをも感じさせられる、その構成には何ともいえない感動がありました。しかも、最終話に向って緩急自在且つ丁寧に過不足無く積上げらる台詞たち。その台詞がまた縦横無尽に巡らされ一つの世界を織り成す様は、本当に美しいとしか言い様がありませんでした。
 また、巧みな俳優陣から「台詞」として発せられたる際の「音」が、これまた美しくかった。

 しかし、アル・パチーノとメリル・ストリープ、エマ・トンプソンの場面は須く凄みがあり、流石だとしか言葉がありません(特に女優2名は一人何役かこなしてるんですが、雰囲気も声も体も全て異なるという、何とも良いものを見せていただきました/^^)。

 ただ、やはり文化(宗教観)の違いもあって、「天使」や「預言者」の位置するところや意味するモノが如何せん完全に理解できず、歯痒い思いもありました。

 また、これは言っちゃいけなんでしょうが…。この作品を観ながら、「(新選組!に対して)こういう『画』が観たかったんだ。私は」と声を大にして言いたくなりました(苦笑)。戯曲を元にした「TVドラマ」で同じ「台詞劇」なのに、何故こうも『画』の創りが違うのか。
 一番の違いは、人が対峙する場面では、必ずと言って良いほど、台詞を言わない人物の「様」も見せる事。これによって、会話してるもの同士がどういう関係性なのか、彼らがどう言葉を発し、どう受け止めてるのか(或いは拒絶してるのか)等をきっちり見せることができる。だからこそ、全ての言葉が空に浮かず、最後は綺麗に着地していく。やはり、それは「台詞劇」の醍醐味だし「最低限」必要な画だと改めて感じました。
 そして、アップについても多用されること無く、必要な場面で使われる印象を強くもちました。多用されないから、アップにした時に映し出される表情の印象が強くなり、よりその画面や言葉や表情が力を持つんだと(えぇしつこい程にアップ多用で、テンポが遅くなった上会話の妙すら消しこんだ事を思うと。その余りの違いが悔しくて勿体無くて。ホントに/酷)。
 また、TV化されたことでロケが多く、その為画面が開放的で自然光が柔らさや荘厳さをも醸し出すという、何とも贅沢な映像群でした(特殊効果の使い方には多少違和感がありましたが、許容できる範囲かと思います)。

 上の文書を打ちながら、ふと思ったんですが。
 演技の巧い下手って、結局演出家や監督が「画」をどう作りたいか、どう見せたいかに左右されるんじゃないのかと。確かに表現力や発声なんかは、本人の資質や努力、理解力が大きいとは思うんですが。
ただ、「画」として見せられた場合、演出家の力量次第で変わるんだろうな、と今更ながら思った次第です。

2005年1月5日水曜日

突然ですが、義父の『組!』評

 年始に相方実家で食事をしてる最中、何の脈絡からか「組!」の話になりました。
 そうそう、大石学著「新選組」を義父が購入して私が勝手に読了した(購入時に「読ませてくださいね」宣言はしてましたが/^^;;)報告から、発展したんだ。
 ちなみに両家の親共、わたしが「組!」にすっかり足元救われてとっぷり嵌ってるのは知ってまして、なんか生暖かい目で見てくれてます(笑)

 全く見てなかった相方交えて、それはもう異様な盛り上がりでした(特に嫁と義父が/笑)。そして、土方役は言うまでも無く「良かった」そうです。山本土方の視線とか佇まいは「土方そのものだったな〜」とこれまた好評でした。
 あぁ流石副長ですよ!!(義母は「綺麗な顔立ちしてたよね」と申してました。流石副長っ、年齢性別関係なしです/笑)
 
 思い起こせば昨年。脚本が三谷幸喜で題材が新選組と知った義父の反応は、「史実通りにやってもらいたい」「大河で三谷的な色はあまり見たくない」「軽い大河は遠慮したい」と言ったものでした(義父は朝日購読者なので、氏連載の「ありふれた日々」も読んでるそうです)。それが、1年経った今年に「良かった」との評を聞けるとは!!意外だったし、それ以上に嬉しさが勝ちました。

 流石に多摩編は「軽い」と思ったそうなんですが、それでも見続けていたのは「台詞がおもしろかった」からだそうで。その言葉には、Viva三谷!!と叫びそうになりましたよ、本当に(感涙)。今まで良質な時代劇や大河を見てきたであろう、古希の義父に「台詞がおもしろいから、見続けた」と言わしめた三谷氏は流石ですよ!!更に、今作で三谷氏の才能にも驚いたらしいです(今まで「権威好きな、皮肉なんだけど重みに欠ける文章書き」という印象だったそうです)。

 また台詞のおもしろさも然ることながら、配役の魅力も大きかったようです(特に佐藤鴨と堺山南)。
鴨亡き後「しまりがなくなるんじゃないのか」と思ったがいい意味で裏切られ、その後の堺山南さん切腹後「緊張感がなくなるんじゃないのか」と思ったら、それもいい形で裏切られた事が、彼にとっては非常に良かったそう(やたら佐藤鴨と堺山南さんの最期を絶賛してましたよ/嬉)。

 ただ、沖田総司と勝海舟は彼のイメージとは違ってたそうです(他はかなりイメージ通りだったようです)。特に総司は「もっと『大人』な狂気じみた感じだと良かったな。今回のは余りにも『幼い』感じがし過ぎたな。」そうです。
 勝については「あんなフットワークの軽い感じはどうも違う。こうどっしり落ち着いた重みのある人物象じゃないと」と非常に不満気ではありました。ただ、不満がそれだけだったと思うと、その不満すら「ありがたい」と思える自分がホント可笑しいです(あくまでも個人のイメージを伝えてる意見だし、頭から非難されてなので物凄く受け入れられるんです)。
 勝に関してだけ言えば、全く観てない相方のイメージが野田勝そのものだったことに吃驚しました(暫く親子で沖田と勝のイメージ論を喧喧諤諤やってました/笑。いいネタ提供したもんだ、私)。

 しかもですよ、あの『どんとこい 新選組!』まできっちり観てたんですって(笑)。いや〜一般視聴者の反応がここまで良いとは、本当に嬉しくなりましたよ(^^)v

 しかし、義父母共に藤原君を「アイドル」と思ってたのは、どう捉えたらいいのか(笑)。特に義母の「香取君より可愛いのに。アイドルとちゃうの?!舞台役者さんなん!?!」な発言は、色んな意味でツッコミどころ多しだと思わなくも無く(笑)
 義父は『どんとこい 新選組!』内で三谷氏が「藤原君の台詞を書くのが一番緊張した」の言葉がとても不思議だったそうですが、藤原君が蜷川氏の秘蔵っ子で「蜷川幸雄に天才と言わしめた役者」と説明すると、得心してくださいました。

 ただ、相方曰く義父と私の『見方』が噛み合ってる様で全く噛み合ってなかったそうです(笑)。義父は「歴史」としての見方で、私は「舞台や演劇」としての見方だそうで、その間には深い河が流れてるらしいです(^^;;

「良かったな、同士が二人も増えて」と慰めともなんとも形容しがたいお言葉を、相方からいただいた帰省でした(ちょっと悔)